才気あふれるガールフッド・ミステリー 陸秋槎『元年春之祭』
紀元前を舞台にしたガールフッド・ミステリーである。
陸秋槎『元年春之祭』(ハヤカワ・ミステリ)は一九八八年に北京で生まれた作者が、復旦大学古籍研究所在学中に脱稿したという若き熱情の詰まった作品だ。刊行点数一八〇〇余に及ぶ同叢書の歴史で、初めて刊行された中国語ミステリーである。作者は執筆中、麻耶雄嵩『隻眼の少女』を日本語で、三津田信三『厭魅の如き憑くもの』を台湾で刊行された中国語版でそれぞれ読み、影響を受けているという。原型作品を中国語文化圏で開催されている島田荘司賞に応募したが一次であえなく落選、その後別作品でデビューが叶い、改稿を経て二〇一六年にようやく本作の出版が実現したのである。
ガールフッド、すなわち交誼を結んだ女性たちに焦点を当てた物語だ。天漢元年というから紀元前100年、前漢の第七代武帝の治世である。山深い土地・雲夢に、かつては国の祭祀を執り行っていたという名家・観氏の邸がある。そこに都・長安から若き於陵葵がやってきた。文武共に修練を積んだ彼女は、観氏の元で古の礼式についての見聞を深める意図があったのである。観氏の当主である無逸には露甲という葵とほぼ同世代の娘がいた。葵は「中国の君子は、礼義には明らかなれど、人の心を知るに陋し」、つまり高度の教養は積んだものの他人の情を推し量る能力を欠いている。対する露甲は山の中でのんびりと育ち人は良いが、進取の気が疎く、守旧を常として新しいものに目を塞ごうとする傾向がある。この対照的な二人が観氏周辺で起こる怪事件に対峙することになるのだ。
そもそも観家では四年前に不幸な事件が起きていた。祭祀の家として観氏を復興させることに熱心だった無咎の一家が無惨な形でみなごろしにされたのである。助かったのは、無咎の折檻を受け、無逸家に助けを求めて転がり込んでいた娘・若英だけだった。奇妙なことに、無咎家と無逸家の間にはその若英と事件発見者の足跡しかついておらず、外部から家に向かうそれは見当たらなかったのである。
葵の滞在中に再び惨劇が起きてしまう。山中において首筋を切り裂かれた遺体を発見した葵は、その瞬間から頭脳を働かせ、犯人をつきとめようとする。しかし事件は一度では終わらず、連続して犠牲者が出てしまうのである。容疑者は外部ではなく観家に滞在している者の中にいるものと思われる。理の当然ではあるが、観氏の一族である露甲の感情はその結論を受け入れることを拒絶する。そして、冷淡に推理を口にする葵に憎悪の矛先を向けるようになる。
古代を舞台にした物語ではあるが、登場人物の考えには現代人にも通底するものがあり、そういった読みにくさはない。観氏は巫女の家系であり、その縁で女性が当時の社会でいかに生きていくべきかという話題が出る。紀元前と現代とはもちろんまったく世界が違うが、会話の中に女性にとって生きにくい社会という状況が見えてくるのは、作者がそこに響き合うものを聞いているからだろう。
自身の未来のためには故郷も捨てるべきだと考える葵と、家族から離れることを怖れる露甲の心情は十分に理解できるものだし、そこに観家というしがらみが関わってくる状況も、現代とそうかけ離れたものではない。いや、現代の日本がそれだけ旧い倫理を引きずっているということなのだが。また、前漢時代という枠組みを脇に措いて眺めれば、聡いがゆえに露甲の愚鈍を軽蔑する葵と、都の住人であり智者としての未来が拓けている葵の可能性に嫉妬する露甲の関係性は、現代の青春小説に移しても違和のないものと感じられる。殺人事件を軸に話が動いていく小説ではあるが、中心になるのはこの二人の心情なのである。生まれも育ちもまったく違う二人が出会い、なぜか惹かれるものを相手の中に見つけてしまう。互いに反発しながら、二人の間にあるものは何かということを探していくのだ。
葵も露甲も感情が激高してくると相手を容赦なくぶん殴る。そのへんは現代小説にはあまりないことで、殴るわ殴るわ、と感心しながら読んだ。あとがきによれば、作者は本作執筆まで歴史小説のたぐいを一冊も読んだことがなく、大学での選考も漢詩と書誌学であったという。『元年春之祭』という題名も五経のうち『春秋』の「元年、春」という冒頭三文字とストラヴィンスキーのバレエ「春の祭典」を合わせたものだ。小説としては練度の低い部分があることは否めず、たとえば露甲がオンとオフしかないスイッチのような性格に書かれていて、すぐにポンと激高するのは単純すぎないか、とか、葵と露甲以外の登場人物が呼ばれるまで電源が切られたように黙っているモブキャラになっている、というような不満はある。作者自身もその不備は自覚しており、また歴史小説へのアプローチも現在は行っていないという。あくまでデビュー作ゆえの欠点として目をつぶって読んでいただきたい。これまたあとがきからの引用になるが、執筆にあたっては「漢籍と、アニメ的なキャラクター表現への情熱を割愛したくなかった」とのことで、登場人物をデフォルメするやり方なども、本作に関しては小説以外からの影響が大であるようだ。
謎解き小説として本書は、二度の「読者への挑戦状」を挿入した意欲的な構成になっている。四年前の大量殺人、現在の連続殺人と二つの大きな事件があるが、推理の主な対象となるのは後者のほうで、叙述トリックが使われていないこと、解答を導くための専門知識を必要としないこと、単独犯であることが律儀に断られているあたりは読んでいてわくわくさせられる。しかもそれが二度あるのだ。最初の読者への挑戦状が出てからの後が結構長いが、読み終えてみるとたしかに必要な情報はその前に呈示されていることがわかる。二度目の挑戦状では解かれるべき謎が追加されるが、それは興趣を添えこそすれ、後出しのずるさを感じさせられることはないのである。
帯の惹句にあるとおり、犯人当てと同時に動機の推量も重要になってくる。古代という条件がそこには大きく絡むのだが、宣言通り手がかりとしては歴史の知識は必要なく、文中から拾った情報だけで結論に至るには十分だ。作品の核になる部分でもあり、ご期待いただきたい。
繰り返しになるが、作者は現代小説の書き方を知悉せずにこの作品に挑んでいる。自然描写の手法など、他の文化圏ではまず見ないであろうという表現もあり、新鮮な気分でこれを読んだ。若さの塊と言うべき作品であり、横溢する才気がこのあとどういう方向に進んでいったのかは機会があれば確かめておきたい。謎解き小説としての趣向もそうだが、葵や露甲のような主人公たちをどう書く作家になったかを私はぜひ知りたいのだ。
(杉江松恋)
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