忘れることができるメモリ、未来においてインプットされた記憶
1992年に刊行された早瀬耕のデビュー長篇。一部で高評価を得ながら、広い注目を集めるまでにいたらず、また作者がその後、表立った作品発表をおこなっていなかったこともあって—-第二長篇『未必のマクベス』が刊行されたのが2014年なので20年以上のブランクだ—-埋もれた作品になっていた。それがようやく文庫化された。
まったく古びていない。いや、むしろ、この作品はいまの読者のほうが、この作品の真価を的確につかめるのではないか。1990年代初頭に『グリフォンズ・ガーデン』は早すぎた。世界認識の根源にふれる先鋭的なSFと、みずみずしい青春小説とが、こんなかたちで結びつくのは驚きだ。
グレッグ・イーガンの短篇が邦訳されはじめたのが1993年、メタフィジカルなテーマを現代物理・情報工学・認知科学のロジックで扱ったそれらの作品が注目されるようになったのは世紀が変わるころだった。それから少し遅れてテッド・チャンが日本へ紹介される。
『グリフォンズ・ガーデン』を通じておこなわれる「世界の成りたち」へのアプローチは、イーガンやチャンの作品で扱われているものに近い。イーガンやチャンが物理や機構の側に足場を置いているのに対し、早瀬作品では世界内存在としての私が起点になる。
たとえば、作中の「ぼく」は恋人の佳奈と、地動説と天動説をめぐってこんなやりとりをする。
「単純な公理があるのに、複雑なことを考えるのは不要だって言いたいんだ。(略)」
「現時点で、単純に見えるだけ。『単純すぎてもならない』っていう警告は、ある単純さを受け容れたために、本質が複雑さの中に隠されているのを見すごしていないか、っていうことだと思う」
「たとえば?」
「ボルツマンの統計力学は、マクロな視点から単純さを見つけだして、それが単純だからという理由だけで成功した。でも、そんなのって、何も解決していないんじゃない?」
「実際に成功している」
「もしも、宇宙の中心となる電子なり中性子とか、あるいはクォークを見つけだしたとしても、それを中心にものを見てみたら、その瞬間に宇宙のすべての電子の動きが、簡単な方程式で表せるかもしれないじゃない?」
「佳奈の言っていることは想像に過ぎない。仮説にもならないよ」
「物理学や数学や化学は、仮説じゃないとでも言うの?」
「それで、世界が数式化できている。大切なのは、成功しているって事実だ」
「それが、他の仮説に失敗のレッテルを貼る理由にはならない(略)」
青春小説では恋人同士のたわいもない会話が愛しいものだが、こういった理屈っぽいやりとりを普通にできる『グリフォンズ・ガーデン』のふたりも素敵だ。
「ぼく」と佳奈がいる世界の物語は「DUAL WORLD」と題された章で語られ、それと交互に、「ぼく」と由美子がいる世界の物語「PRIMARY WORLD」が進んでいく。ふたつの世界の「ぼく」は、(とりあえず)同一人物ではない。いま、(とりあえず)とカッコ書きしたが、その理由はこの作品を最後まで読めばおわかりいただけるはずだ。
「PRIMARY WORLD」のぼくは、バイオコンピュータ内に世界を創造する。それは思ったほど難しいことではない。人間と同じアルゴリズムで思考するAIをつくるのは至難だが、人間的反応・判断を網羅したデータとして持たせるだけならメモリの問題だ。そしてバイオコンピュータは実質的にメモリが無限なのだ。より正確にいえば、従来のコンピュータのようなメモリの概念がない。バイオ素子は多細胞で構成され、演算過程も含めたデータを複数の細胞で共有して記録するが、どの細胞に記録されたかは確定できない。一時間前に入力したデータと、一週間前のものが、ひとつのバイオ素子に記録され、バイオ素子間のコピーによって同じデータが重複して記録される。
そのため際限なく記録はできるが、呼びだされることが少なく、活性度の低い素子にだけ記憶されているデータは、いざアクセスしようとするとレスポンスが悪くなる。人間でいえば「覚えているのに思いだせない」状態だ。
「PRIMARY WORLD」のぼくが、バイオコンピュータ内に世界をつくろうと思い至ったきっかけは、夢のなかで会った佳奈という知らない女性だった。まだバイオコンピュータにふれる以前、ぼくは恋人の由美子と飛行場の手荷物受取所でこんな会話をする。
「過去にインプットされていない記憶ってあるかな?
ベルトコンベアで運ばれてくる荷物を待ちながら、由美子が言う。
「どうだろうね……」
「そうだとすると、未来においてインプットされるだろう記憶になるんだよ」
「違うと思う。未来においてインプットされた記憶だ」
もちろん、通常の物理時間を前提とすれば、「未来」と「すでにされた」は矛盾だ。しかし、人間の生きている意識において時間は過去から未来へと線的に流れるものではない。そして、これは『グリフォンズ・ガーデン』という作品をどう読むかとも関わってくる。
伝統的なSFの常識で計ると、リアル世界が上位にあり、電脳空間のなかに構成された仮想現実が下位にある、という構図に収まってしまう。「PRIMARY WORLD」のぼくがリアル世界にいて、バイオコンピュータのなかに「DUAL WORLD」を形づくったのだ、と。はたして、そうだろうか?
「DUAL WORLD」は未来においてインプットされた記憶のように、「すでにされた」ことであって、それを「PRIMARY WORLD」が夢のように思い起こしているのではないか?
もちろん、判断は読者ひとりひとりに委ねられている。
(牧眞司)
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