最後の最後まで裏をかかれる『乗客ナンバー23の消失』

最後の最後まで裏をかかれる『乗客ナンバー23の消失』

 一口で言うと、豪華客船の中でたいへんなことが起こってみんながびっくりする話だ。

『乗客ナンバー23の消失』(文藝春秋)の作者セバスチャン・フィツェックは、「この本について、そして謝辞」の中でこう書いている。

──もしかしたらこのサスペンス小説を書いたせいで、既存の船会社から永遠に嫌われてしまうかもしれません。『乗客ナンバー23の消失』を出版したあとは、洋上映画館にタイタニック号の映画がかからないように、わたしも船上の朗読会に招かれることがなくなるおそれがあります。

 本書の主人公のマルティン・シュヴァルツは囮捜査に従事する警察官である。彼の心の一部は壊れてしまっている。五年前、クルーズ客船に乗って旅に出た妻が、息子を海に投げ込んで自分も身を投じるという形で死亡した。その記憶が今もマルティンを苛んでいるのだ。その彼の元に不審な電話の着信がある。電話の主はマルティンに、今すぐ〈海のスルタン〉号に乗るように命じてくる。五年前に彼の妻子を奪った悲劇の現場、その船に。

 話としてはほんのとば口だが、あらすじについてはこの程度知っていればいい。もうちょっとだけ付け加えるならば、〈海のスルタン〉号ではごく最近も怪事が発生していることが序盤で明かされる。アヌーク・ラマーという少女が船上から消え、二ヶ月もの空白期間を経てから突如戻って来たのである。ただし、彼女と共に乗船していた母親のナオミ・ラマーは依然として行方不明のままだ。繰り返される母と子の消失劇、というのが本書の核なのである。あとは本当に情報を入れずに読むのが吉。

 といっても、これだけでは書評として不親切なので、具体的な登場人物名とか起きる出来事の内容には触れずに『乗客ナンバー23の消失』で作者セバスチャン・フィツェックが読者に何をするのか、何をくれるのか、について書きとめておこう。

 フィツェックが私にくれたもの。秘密だらけの巨大船。
 フィツェックが私にくれたもの。いわくありげな船客たち。
 フィツェックが私にくれたもの。解けそうで解けない暗号文。
 フィツェックが私にくれたもの。始終聞こえる死者の声。
 フィツェックが私にくれたもの。内側から施錠された空白の部屋。
 フィツェックが私にくれたもの。いたずら好きの運命の女神。
 フィツェックが私にくれたもの。さりげなく投げ出された重要証拠。
 フィツェックが私から奪ったもの。これで大丈夫、解決だ、という安心感。

 懐かしのJITTERIN’JINN「プレゼント」のメロディを載せて「大好きだったけど……」と口ずさんでもらってもいいのである。これだけのものが『乗客ナンバー23の消失』には含まれている。出身も育ちもばらばらの人間が集まってきて一定期間を閉ざされた環境で過ごす、というのは観光ミステリーの定石であり、中でもアガサ・クリスティー『ナイルに死す』やカーター・ディクスン『九人と死人で十人だ』のように豪華客船を舞台にしたものには読者の心を躍らせる魅力がある。本書もその系譜に連なるものだが、さらに〈海のスルタン〉号そのものが胡散臭い秘密を抱えている。自分たちのいる場所の謎を解き明かさなければ運命を切り拓くことができない、という点は日本の〈館〉ミステリーに通じる味もある。

「暗号文」「死者の声」と書いたが、本書には多数のメッセージが登場する。捜査を妨害する脅迫文であったり、絶望的な内容の遺書であったりするのだが、そうした見えない者の声が空間に渦巻いている小説なのだ。中には解読が必要なものもある。文章そのまま、見かけ通りのメッセージではなく、隠された意味を発見しなければならない。作者は起きていることの表層をすくい取って読者に提示するだけだ。書かれた内容は事実ではあるが、深い層に沈められたものを表しはしないのである。また、運命の女神は途中で厄介ないたずらを仕掛けてもくる。突発事によって誰かが企図していた展開は捻じ曲げられもするのだが、それが偶然なのか、周到に計画されたものなのかは、一瞥しただけでは見分けがつかない。あちこちに置かれた手掛かりを忘れないようにかき集め、作者の不意打ちに備えることも必要だ。

 どんなに注意深くしても、やりすぎということはない。なぜならば、いかに備えたとしても絶対に作者は予想の上を行くはずだからである。よくもまあ、こんなことを考えるよなあ、しかもこんなにいくつもいくつも、と半ば呆れながら私は読み終わった。みなさんもきっと呆れると思うな。

 フィツェックはドイツの作家で、2006年に発表した『治療島』でデビューを果たした。同作とそれに続く初期作品『ラジオ・キラー』『前世療法』『サイコブレイカー』の計四作が柏書房から、やや遅れて発表された『アイ・コレクター』が早川書房から刊行されている。本書は6年ぶりの翻訳だ。

 初期作品がサイコホラーにジャンル分けされたためにそのイメージで見られることが多かった作家だが、フィツェックには狭いサブジャンルに押し込めてしまうにはもったいない才気が充溢している。本書ではフェアプレイの作法や多重解決の展開など、謎解きミステリーの技巧を使いこなしており、むしろそういった方面の読者に評価されるべき作家だろう。さらに言えば、『悲しみのイレーヌ』の作者、ピエール・ルメートルが血みどろの殺人劇の中に弱き者、虐げられた者の抵抗を見出したように、フィツェックにも悲劇を描きつつ、その先を見極めんとする姿勢が備わっている。とんでもなく肝を冷やされた後に、なぜか温かいものがこみ上げてくる小説でもあるのだ。最後の最後まで裏をかかれる。やられたなあ、ほんとうに。

(杉江松恋)

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