「勝ち負け」が必ず存在する世界。「負け」の次は“ただ”這い上がるのみーープロ棋士「渡辺明」の仕事の流儀
将棋界で初めて「永世七冠」を獲得した羽生善治氏の国民栄誉賞受賞、さらにはその羽生氏を破った中学生プロ棋士・藤井聡太氏の快進撃、また棋士が主人公の映画や漫画が人気になるなど、大きな注目が集まっている将棋界。では、プロ将棋の世界とは、いったいどんな世界なのか。将棋を職業にしている棋士たちは、どんな意識で仕事に向かっているのか。
訪れたのは、将棋界の総本山とも呼ばれる、東京・千駄ヶ谷の「将棋会館」。プロ棋士たちによって数々の名勝負が繰り広げられてきた聖地だ。JR千駄ヶ谷駅から5分ほどの場所にある5階建ての建物には、公益社団法人日本将棋連盟の本部が置かれ、2階の直営の将棋道場は幅広い年代の将棋ファンで賑わっていた。
静かなフロアへと上がっていき、大きな王将の駒が飾られた応接室に現れたのは、渡辺明(33)棋王。将棋界には、8つのタイトル(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖、叡王)があるが、そのひとつ、棋王の称号を手にしているのが、渡辺棋王だ。
※7つだった将棋のタイトルに、「叡王」が加わり8大タイトルとなった
竜王、棋王いずれも永世称号を持っている棋士
取材をしたのは、2月12日のタイトル(棋王)防衛戦の第一局の直後。8時間にわたる熱戦を制し、勝利したわずか4日後だった。もし敗戦の後だったら……と心配していたのだが、そんな心配は無用だったらしい。
「負けていたとしても関係ないですよ(笑)。勝ちがあれば負けもある。そういう世界ですから」
とさらりと渡辺棋王。現役で活動する162人のプロ棋士の中でも、超一流の棋士であることは言を俟たない。8つのタイトルのうち、竜王と名人は双璧とされるが、弱冠33歳にして、その竜王のタイトルを9連覇し11期獲得しているのだ。連覇数も獲得数も、いずれも歴代1位の記録である。
棋王も5期獲得。竜王、棋王いずれも永世称号を持っている。70年あまりの間に300人ほどのプロ棋士が誕生しているが(このうち現役棋士は162人)、永世称号を持っている棋士はわずか10人しかいない。例えば、竜王戦の場合は「連続5期または通算7期」が有資格者の条件。とんでもなく難しいことだが、それを達成した一人が渡辺棋王なのだ。しかも、まだ33歳である。
小学校1年生のとき、アマ五段だった父に教えられて将棋を始めた。小学生将棋名人戦を小学4年生で優勝。プロ棋士を目指したのは、自然な流れだったという。
「父がやらせてみたら向いていた、ということなんだと思います。自分の強さは相対的にはわかりませんが、子どもとやってみると勝てた。今もそうだと思いますが、同年代で強いとプロを目指すんです」
将棋界には昇段規定があり、プロ棋士の養成機関である奨励会は6級から始まってプロの最上位は九段までになっている。だが、三段と四段に大きな境目がある。三段までは奨励会員と呼ばれる修行中の身で、プロ棋士ではない。対局しても基本的にお金はもらえない。それに対して四段以上はプロ棋士。対局すれば、必ず報酬がもらえる。
奨励会三段がプロの四段になるためには、年2回行われるリーグ戦に参加する。その成績上位2名だけが四段に昇格して晴れてプロ棋士になれる。
しかし、三段リーグには年齢制限が設けられている。原則としては、一部の例外規定を除いて26歳の誕生日を迎えて新しいリーグに参加することはできない。年齢も限られた狭き門なのだ。
大事なのは、事前の準備。相手の傾向で対策を講じる
小学生で頭角を現した渡辺棋王はトントン拍子で昇段、15歳のとき、中学生で四段昇段を決めた。史上4人目の中学生棋士だった。
「それは目指していました。中学生デビューした過去3人の人たちが大変な実績を持つ超一流の棋士だったからです。だから、ゆくゆくはタイトルも取れるんじゃないか、と。プロになれたときは、うれしかったですね。努力して向かった目標を、初めて達成できた瞬間でしたので。ただ、藤井聡太くんほど当時は騒がれませんでしたけど(笑)」
過去3人(加藤九段、谷川九段、羽生竜王)と比べられるプレッシャーもなかったわけではない。ただ、慌てたりすることはなかった。いつかちゃんとやれば勝てるだろうと高校生活もエンジョイした。
「もう遊べなくなるので3年間は遊ぼうと(笑)。でも、趣味や好きなことを仕事にできる人は、世の中に1%もいないと聞きます。そのありがたさは認識しないといけないと思っています。一方で勝負の世界ですから厳しさはあります。勝ちと負けしかない。引き分けはないですから」
形勢が有利に進んでいても、わずか一手で一発逆転が起きてしまうのが、将棋なのだという。それだけに、瞬時のひらめきや勘がものを言うのかと思いきや、本物のプロ棋士の世界では違った。
「大事なのは、事前の準備ですね。こういう形になるだろうとシミュレーションして、ある程度は決めていきます。時間制限もありますから、考えきるのに時間が足りないこともある。あらかじめ結論を出しておけば、有利に考えられるわけです」
相手が何をどんな手を指してくるかで、無数の状況がありうるが、相手の最近の傾向などを見て対策を講じていくという。プロ棋士の世界の凄まじさが、渡辺棋王の著書『勝負心』(文春新書)にあった。紹介してみよう。
たった10秒と思われるかもしれないが、プロ棋士は10秒あればかなりの手を考えられる。一直線の読みで言えば、ざっと20〜30手くらいは指し手が浮かんでくるだろうか。
プロ棋士は、知識を蓄積しているから、読まなくてもよい手などもあって、実際はうまく省略しながら先の手を考えている。(中略)
持ち時間が10秒もあれば、単なる「勘」で指すことはしない。プロ棋士は、10秒であっても「読む」。
つまり、必ず何かしらを考えて、その上で着手を決めるのである。多くの場合、第一感の手を指すわけだが、その限られた時間のうちに良い手が浮かんでくるかどうかが実力なのであって、日々の研鑽が大きくものを言うのである。
10秒で、20〜30手が思い浮かぶ世界。しかしそれも、日々の努力あってこそ、なのだ。
集中力を上げようと思ったことはない
もうひとつ、将棋の対局といえば、圧倒的な集中力がイメージされる。どうやって集中力を高めているのか。聞いてみると意外な返事がやってきた。
「集中力は上げようと思って上がるものではないですね。だから、上げようと思ったことはありません。それよりも、頭をクリアにして、冴える状態にしておくことのほうが大切。そのためにも、普段から頭を使っておくことです」
難しいことをする必要はないという。頭の体操を常に行っておくのだ。
「例えば、詰め将棋をする。ほとんど毎日、本を見ながら、頭の中でやっています。普段からやっていないと、冴えは鈍ります。軽い運動みたいなものです」
また、体重にも気を付けている。身体が重くなると、全身がだるくなるという。それは頭にもポジティブな影響にならない。
「だから毎朝、必ず体重計に乗ります。標準値を知っておいて、運動や食事でバランスさせています。暖かくなると、ほとんど毎日、ジョギングをしますし、月1、2回サッカーをしています」
対局の日も、特別何かをすることはない。いつもと同じ時間に起きる。
「私はヨーロッパサッカーを観るのが好きなので、夜が遅くなってしまうんです。なので、朝は9時くらいまで寝ていることが多い。また、朝ご飯も食べる習慣がありません。だから対局の日も早起きしたりしませんし、朝ご飯も食べない(笑)。対局は年に50日ほどしかありませんから、そこに合わせるんじゃなくて、普段の生活が優先ですね」
そのほうが、普段の冴えでいられる、ということだ。
緊張感もプレッシャーもあるのは当然のこと
そして将棋の対局といえば、失敗が許されない強烈なプレッシャーが想像される。平常心を保つために、どうしているのか。これについても意外な答えをもらった。
「対局のときは、平常心じゃないですよ(笑)。緊張もしますし、負けへの恐怖もある。勝ちそうなときには興奮もします。でも、それでいいと思っているんです。いろんな感情の揺れはあって当然。それをヘンに押さえたりしない。普段通り自然体で、なんてほうが難しい。勝ちたいんですから、力が入るのは当然です」
むしろ大事にしているのは、緊張感もプレッシャーも受け入れてしまうことだという。
「そういう中で勝ち切っていかないと、タイトルも取れないですから。いつかは乗り越えないといけないんです。だから、特別なこともしない。げんもかつがない。対局前だからと、無理に習慣を変えたりもしない。それで力が出るとは思えないから」
ここでも重要なのは、普段の生活だ。いかに普段を心地良く過ごすか。
「例えば事前準備をやらなくても対局はできるんです。やらなくていいことを、いかにやりたくなるように持っていけるか。どう気持ちを乗せていくか。そのほうが大事なんです」
だから、好きなことにも時間を使う。楽しみとして外せないから、ヨーロッパサッカーも観る。寝るのが深夜になっても、楽しみを優先させる。競馬にも夢中になる。趣味をたくさん持つ。
取材中、メンタルは弱いんです、という言葉が渡辺棋王から出てきた。
「負けたときは、気持ちを引きずりますよね。この対局は忘れて、さぁ次、というほど簡単にはいかないですから」
痛手を忘れ、気分を変えていくためにも、楽しみは大事になる。自分に無理はさせないという。次の勉強もしなければならないが、気分が乗るのを待つ、無理矢理やっても、効果が出るとは思えないからだ。
「ただ、負けたときは、自分の普段の取り組みを見つめ直す機会にはなります。負けたときは、何かを変えるチャンスだと思っています」
年齢によってステージを変えていかないといけない
超一流のプロ棋士でも、ずっと勝ち続けられるわけではない。どんなに勝っても6、7割。3割は負ける。それを受け入れ、トータルで勝ちに行く。そして問われるのは、どれだけ今の状態を長持ちさせられるか、だという。
「スポーツもそうですが、年齢を重ねていくと、基本的にどんなプロでも成績は落ちていきます。どれくらい今を長持ちさせられるか。何歳くらいまで同じポジションでいられるか。年齢を重ねて落ちていったとき、どんな力があれば、その年齢なりに戦えるか。若い人は次々に出てきますから、どう立ち向かっていくのか。長所、短所を冷静に分析して、それをどう活かしていくか。しっかり考えていかないといけないと思っています」
実際、徹底した事前準備と研究が渡辺棋王の若い頃のストロングポイントだった。ただ将棋界では、研究は若い時代こそが深くなる、とどの時代でも言われてきたことだという。若手にはかなわないのだ。だから、年代によって、ステージを変えていかなければいけない。
「自分のスタイルを変えるのも、変えないのも選択です。ただ、実際にはプロ棋士は本人にしかわからないような微妙な変化を絶対にしていると思います。自分では変えているけれど、外にはわからない。スポーツ選手も同じでしょう。微妙にフォームを変えたり。本人にしかわからないような進化があるんだと思います」
逆にいえば、だからこそ竜王の9連覇などという大偉業が達成できたのかもしれない。当然、ライバルからは研究し尽くされる。さらなる進化をしなければ、勝ち続けることは難しいのだ。
そしてこんなことも語っていた。勝つにしてもきれいに勝つこと。勝負はミスを犯したほうが負けると言われているが、相手のミスで勝つのではなく、自分で勝ちに行く。
「それが理想ですね。完敗だと、相手も傷つかない。ごちゃごちゃ誤魔化されて負けたりすると、気持ちも良くないんです」
本当の自分の力が発揮できる場所にいるのか
写真:プロ棋士が熱戦を繰り広げている対局室
最後に才能とは何か、を聞いてみた。
「才能とは難しい質問ですね。熱意、というのも少し違うような気はしてますが、成功している人たちはみな思い入れが強いですよね。ただ、熱意を持つにしても持たないにしても、本当に自分の意思だけで生きてきたのか、は問わないといけないと思います。才能って、もともと生まれつき決まっているもの、ですよね。努力できるかどうかも、性格で決まっていたりする」
ただ、ではすべてが運命によって決められているのかといえば、そうではない。
「その意味で、自分の意思で決めてきたのか、は問われなければいけないと思っています。本当の自分の力が発揮できる場所にいるのか、熱意が持てる仕事をしているのか。それは、自分の意思で変えることができることだからです」
人生は作られているわけではない。やはり自分で作っているのだ。問われるのは、その手綱をしっかり自分で握っているかどうか、それを認識できているかどうか、である。
取材の2週間後、金沢で行われるタイトル防衛戦の第2局が控えていた。第1局は、熱戦を制したが、序盤から事前準備を完全にくつがえされる稀な試合だったという。
「次の作戦ですか? まぁ、相手がどう出てくるか、わかりませんので。それよりも自分のパフォーマンスをどう出すか、ということですね」
金沢での第2局は、永瀬拓矢七段が勝ち、1勝1敗となった。また、3月2日に行われた「将棋界の一番長い日」と言われるA級順位戦で、渡辺明棋王のB級1組への降級が決まり波瀾の順位戦となっている。だが、「戦い」は終わらない。棋王の称号をかけた「防衛戦」第3局は、3月11日、決戦は新潟で迎えることとなる。
痺れるような勝負の世界に生きているプロ棋士。厳しい日々を過ごしていることは間違いない。だからこそ勝っても負けても常に自然体でいること、そして自分の楽しませ方のうまさが、この世界で生き抜く術のひとつなのかもしれない。
WRITING:上阪徹
PHOTO:平山 諭
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