大家さんと住人の歪な関係〜木村紅美『雪子さんの足音』

 10年前に母方の祖母が97歳で亡くなるまでおばあちゃん子として過ごした私は、年寄りの基本的に親切でありながらやや押しつけがましい感じをかなりよく理解していると思う。祖母は常に心優しく控えめな性格で、孫に対しても乱暴に接したことは一度もなかった。一方で、その遠慮深さやおとなしさはしばしば優柔不断さや他人の顔色をうかがう性質とみなされるもので、同居していた私の父が祖母を苦手としているのは子ども心にもわかるほどだった。

 本書の主人公で現在は公務員として働いている湯佐薫が、学生時代に大家さんだった川島雪子さん(90)が亡くなったと新聞記事で知るところから物語は始まる。当時薫は仙台から上京してきた男子大学生で、大学の生協で紹介してもらった高円寺のアパートに入居することになり雪子さんと知り合ったのだった。薫が203号室に入居してしばらく、階下の部屋には雪子さんとその息子が暮らしていた。雪子さんの息子は定職に就いていないと思われる中年で、ときどき彼が大声を出したり一転してすすり泣いたりするのが薫の部屋まで聞こえていた。その後、近所の主婦たちの会話から息子が亡くなったと知った薫の元に、雪子さんから自分の部屋に遊びに来ないかとの手紙が届く。最初は控えめだった誘いはやがて、ひんぱんなものへと変わっていった。もてなしも日増しに過剰になっていく。薫と同い年ですでに社会人である2階の住人・小野田さんという女性と雪子さんと3人で、たびたび同じ時間と空間を共有するようになる。

 雪子さんは自分の部屋をサロンと名づけ、薫や小野田さんを招いていた。薫は大学生でありながら、学生生活にいまひとつなじめず授業もさぼりがちでぶらぶらしていることに引け目を感じ、自分は小説を書いているのだと口走ってしまう。それから間もなくして、薫の部屋の郵便受けに雪子さんからの激励の手紙と一万円が入ったぽち袋が入れられていた。すぐに返そうとするが、雪子さんは芸術家志望者のパトロンになりたいのだと微笑まれ、結局薫はそのお金を受け取ってしまう。援助はお金だけにとどまらず、毎日のように食事に誘われ、断れば薫の自室に雪子さんが「出前」を運んでくるようになる。雪子さんが友だちと旅行に行く間さえ、その間の食事を用意してあるからと家の合い鍵まで渡される。部外者の目からみれば、どう考えても度を超している行為としか思えない。しかし、人間の感覚はすぐに麻痺するものだ。最初は遠慮する気持ちがあった薫も、次第に食事やお小遣いを受け取るのが当然のことと思うようになっていく。雪子さんも喜々として要求に応じる。小野田さんを含む歪な彼らの関係はやがて…。

 雪子さんには私の祖母との共通点も多い。祖母は雪子さんのように生活に余裕のある人とは違ってつましい生活を送っていたが、例えば困っている人がいると見返りなどを考えず手を差し伸べてしまうところ、他人との距離の取り方がうまくないところ、家にお客が来れば食べきれないほどの料理を並べてしまうところ…。雪子さんは東京大空襲で焼け出され、後を走っていた人が焼夷弾に当たって即死したのを目撃した経験があるそうだ。食べ物のない時代を生きた人にとっては、十分すぎるほどの食事を提供するのが何よりの歓迎なのだということに、本書を読んで改めて気づかされる。戦後生まれの人々のみで構成された家族には、ピンとこない感覚であるに違いない。著者の木村紅美さんは1975年生まれ。両親が戦争を経験している最後の世代くらいではないだろうか(1967年生まれの私の同級生の場合でも、若くして出産された親御さんはすでに戦後生まれだったと思う)。そして私の息子たち世代に至ってはもはや、祖父母でさえ戦争を体験していないというケースもまったく珍しくない。身内に戦争体験者がいることによって生じる思いを、いま書かれたことには大きな意味があると思う。

 ラスト、薫は現在の月光荘の前に立つ。その胸にどんな思いが去来していたのか、読者がそのすべてをつぶさに知ることはない。それでも、わき上がったのは否定的な感情だけでなかったと思いたい。本書を読まれたみなさんには、高齢者が身近にいることの心やすさと若干の鬱陶しさを心に留めて、おじいちゃんおばあちゃんを大切にしてただけたらと思う。楽しい思い出を積み上げていく方法はきっとあるはずだから。

 本書は直近の芥川賞である第158回の候補となった作品。著者の木村紅美さんは2006年に「風化する女」で第102回文學界新人賞受賞後、デビューされた作家である。わたしにとっては本書が初木村作品(すみません、タイトルのせいもあって、松井雪子さんとごっちゃになってました…)。すでに単行本は11作目とのことですが、これから追いかける楽しみが増えました!

(松井ゆかり)

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