馳星周が放つ真ん真ん中の山岳冒険小説『蒼き山嶺』

馳星周が放つ真ん真ん中の山岳冒険小説『蒼き山嶺』

 馳星周が正攻法で書いた山岳冒険小説である。

 この情報だけで新作長篇『蒼き山嶺』は即買い、だろう。

 冒険小説の魅力を端的に言い表せば、信念や情熱をまっとうするために個人が自身の限界に挑む姿が描かれる点にある。その中でも山岳冒険小説は、高度や気象条件といった阻害要因がわかりやすい形で描かれる。不朽の名作、デズモンド・バグリイ『高い砦』をはじめ、これまでにも数々の作品が書かれてきたジャンルである。そこに馳星周が参加したのだ。

「わたし」こと主人公の得丸志郎は、元長野県警の山岳遭難救助隊員として勤務していた経験のある人物である。今は白馬村観光課の顧問をつとめ、ときおり舞い込んでくる山岳ガイドの仕事などを引き受けることで細々と食いつないでいる。早春のある日、残雪の状況を確認していた得丸は無謀な登山者に遭遇する。意外なことにそれは、大学時代に山岳部で同期だった池谷博史だった。彼は得丸と同じ警察官になっていた。警視庁に採用され、公安畑一筋で二十年通してきたのである。その間まったく山に登っていなかったためか、池谷の体はなまり切っていた。白馬岳を目指すという彼に頼まれ、得丸はガイドを引き受ける。

 物語の構造はいたって簡明だ。池谷の目的は白馬岳の頂きを踏むことではなかった。山を越え、徒歩で日本海岸を目指そうとしていたのである。池谷が抱えるある秘密のゆえであった。切羽詰まった旧友と共に得丸も、白馬連山を縦走し、栂海新道を抜けて海を目指すことになる。残雪期とはいえ冬山の天候、そして池谷を追ってくる謎の勢力が二人の行く手を阻む。敵は第一に大自然、そして次に人間の悪意。わかりやすい。

 本書で秀逸なのは人物配置である。得丸と池谷、そして遭難事故のためすでにこの世にない若林純一の三人が、かつての山岳部の同期三羽烏であった。若林は山に登るために生まれてきたような身体能力の持ち主であり、学生時代の得丸たちはその才能を嫉妬するしかなかった。卒業後、それぞれの道は分かれていく。海外で山に登るためにはスポンサーをつけられるほどの実力が要る。三人の中でそれを備えていたのは若林だけだった。若林は天才登山家として名を馳せ、地球上に存在する八〇〇〇メートル超の十四座をすべて制覇できる男と見なされるようになっていった。その実力の絶頂期に、K2で命を落としてしまったのだ。

 三羽烏の残り二人は違う生き方を選んだ。得丸が長野県警に入ったのは、定職に就きながら山を続けることができると考えたからだ。したがって県警の中にも山岳救助隊など限られた部署にしか彼の居場所はなく、里に下りて交番勤務をすることを命じられたときには迷わず辞表を書いた。登山家という夢と就職という現実を天秤にかけた得丸とは裏腹に、卒業と同時に山を完全に捨てたのが池谷だった。同じ警察官になるのであれば、出世できる警視庁以外には入っても意味がない。そうした意思を明確に示して、彼は過去と訣別したのである。

 夢を追うことができる者、現実と妥協する者、夢を諦める者。三者三様の在り方は、登山だけではなく、すべての世界に共通するものだろう。努力なしに成功はありえない。しかし、持って生まれた才能の差は努力だけでは補えない。そうした残酷な真実を、彼らは卒業という局面で見せつけられたのである。二十年の歳月が流れ、三人の運命はさらに変化した。得丸と池谷の再会によって停まっていた時計が動き出し、忘れていたもの、見えなくなっていたものの存在を彼らに自覚させることになる。本書には随所に美しい情景が出てくるが、それらがどのような流れで、いかなる呼吸で示されるかにぜひ注目いただきたい。なるほど、このための山岳小説であったか、と唸らされることになるだろう。

 馳星周は、かつて坂東齢人の名で評論活動を行っていた時期に、ジャンルが定型化・形骸化の途を辿っていることに警鐘を鳴らし続けていた。だからこそ自身が作家として先人によって開拓されたジャンルを手掛けた際には、大胆な実験を進んで行ったのである。一人称ハードボイルドの定型を壊すために書いた『ブルー・ローズ』はそうした試みが最も成功した作品と言えよう。そうした尖鋭さが馳作品第一の特徴であった時期を知っていると、『蒼き山嶺』という作品はさらに味わい深く読むことができる。本書の馳は、山岳冒険小説の定石を用いることになんらこだわりがないように見える。二十年を超える作歴を経て、新たな境地に到達した。一回りして真ん真ん中に戻って来たのである。馳星周は、これからがきっと凄いのだぞ。

(杉江松恋)

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