鮮烈なイメージの植物融合都市、小さな物語で大きな世界を照らす。
とにかく世界のイメージが圧倒的。
舞台となるのは、大震災後を経て再興した近未来の東京だ。復興の手だてとして、二十三区全体をほぼすっぽりと内包する直径三十キロメートルの巨大環状緑地帯が造成される。すでに実用化されていた植物を演算に利用する「フロラ技術」を用いて、東京を世界でも屈指の計算資源都市に仕立てたのである。フロラ技術の基本は、生きた植物の細胞内の生化学的な機構を電気信号と接続し、情報の読み書きをするところにある。
フロラ技術が活かされているのは環状緑地帯だけではなく、都市のそこかしこに入りこんでいる。ビルは自然採光を最大化する節ばった形状にデザインされ、その節々から青々とした繁みが顔を出し、空にむかって枝を広げている。高層建造物では下層から上層へと気温の勾配があり、それに沿って壁面に複雑な植生が展開される。
高密なフロラの壁からガラス製の採光装置が無数に伸びている。これで陽光を屋内へ導入しているのだ。採光装置は透明だが、色つきガラスで社名や製品のロゴが入ったものも多い。夜間には逆に、室内の電気照明がここから外へと漏れ、かつてのネオン看板のようだ。
かように、フロラ技術は都市景観すら変えてしまう。
植物を題材にしたSFのなかには、ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』やトマス・M・ディッシュ『人類皆殺し』、上田早夕里『薫香のカナピウム』のように、旺盛な生命力の植物が世界を支配し、人工的な都市がまったくなくなった世界もある。池上永一『シャングリ・ラ』では、地球温暖化の進行によって東京は森林化し、その上に特権階級が暮らす空中都市アトラスが建造されていた。
それに対して、『コルヌトピア』は植物と人工都市が融合しているのだ。共生というかハイブリッドというか。なんという情景! 画像的想像力を激しく掻きたてる。
この作品は、第五回ハヤカワSFコンテストに投じられ、みごとに大賞を受賞したのだが、審査員の全員が選評で、このイメージを賞揚している。そのいっぽうで、「世界観の壮大さに比べ、物語があまりに小さい」(東浩紀)という指摘もある。
たしかに、演出的バランスということでいえば、妥当な指摘だろう。しかし、大きな物語が必要とも思えない。私たちは、ただ大きさに心を動かされるのではないからだ。要はその物語の質感や稠密さである。『コルヌトピア』は壮大な世界観と別個に小さな物語があるのではなく、壮大な世界観と小さな物語が密接につながっているのだ。
たとえば、主人公の砂山淵彦は、大学に入学したばかりのころ、同級生のなかで自分が異物になったように感じた。フロラ技術は日常にも入りこんでおり、ひとびとは〈角〉というセンサを用いて、周囲のフロラを浅くレンダリングして—-要素情報を統合してイメージを得るとでもいえばいいか—-環境的文脈を共有している。噛み砕いていえば、私たちがいちいち意識せずにおこなっている「場の空気に合わせる」行為を、フロラを借りて少し精緻化する—-くらいのことだろう。淵彦は、レンダリングで得られたものを、自分の気分に結びつけられずにいたのだ。
診断の結果、〈角〉と情動を司る脳機能との不和だとわかり、しばらく高原の精神医療施設で認知行動療法を受けることになった。療法の効果は出なかったものの、レンダリングと情動とが遮断されているのは逆に考えてみれば特技であり、淵彦はこれを活かした仕事に就くことになる。巨大環状緑地帯の運用をおこなう企業の特殊問題調査業務だ。東京の計算資源に不具合が生じたとき、現地へと赴き〈角〉によるレンダリングによって原因究明をおこなう。情動が入りこまないので冷静な判断が可能だ。
いま、巨大環状緑地帯で不可解な計算資源の消失が発生していた。植物は生き物なので自然な変動はある。しかし、ある区画がごっそりと消えるのは、異常事態だ。淵彦は謎を探るべく、天才植物学者と呼ばれる折口鶲(ひたき)の協力を求める。
淵彦に自分の物語(人間集団のなかでの違和感)があったように、鶲には鶲の小さな物語がある。鶲の母は花を愛するひとで、小さな庭をつくっていた。フロラ技術とは無縁の、ただ世話をし、生育するさまを慈しむだけのささやかな庭園。その母は鶲が十五のときに急死し、鶲はその庭を世話しながらしだいにフロラ技術に興味を持つようになった。やがて研究が忙しく、母が残した庭を手入れする時間がとれず、庭を放置した。そのことが、ずっと鶲の心に引っかかっている。
巨大環状緑地帯で起きた不具合を究明する一助として、鶲は異端植物を参照する試みを提案する。異端植物とは、フロラ化(計算資源化)できない植物である。これまでフロラ化できた植物がフロラ化を拒むよう変異する例は知られていないが、もしそうした事態が発生しているのならば、異端植物を調べるとなにかわかるかもしれない。しかし、この提案が思わぬ事態を引きおこしてしまう。
そして、巨大環状緑地帯に事故の背後に、もうひとりの人物の影がちらつく。藤袴嗣実(ふじばかまつぐみ)。淵彦が精神医療施設で知りあった、歳下の青年である。ふたりは意気投合し、やがていつか自由になったら一緒に「どこかにある、気持ちいい場所」を探しに行こうという約束した。淵彦とは別なかたちで、嗣実も世界のなかで違和感を抱えていた。しかし、淵彦が退院する—-根治ではないにしろ喫緊の危険性は脱したと判断されたのだ—-間際、ふたりで療養施設近くの雑木林へ行き、そこで嗣実が昏倒してしまう。事態がわからぬうちに、淵彦は嗣実と連絡が取れなくなり、それから月日がすぎていった。
嗣実が抱えていた問題は、じつはフロラ技術の根本に関わるものだった。ひとびとは都合良く植物を利用しているつもりだったが、その関係は一方的なものではない。人間は環境をつくりかえるが、つくりかえられた環境はまた人間へと影響を与えるのである。そして、その影響を引きうけるのは、人類や社会という集団ではなく、人間ひとりひとりなのだ。
淵彦、鶲、嗣実。ひとつひとつの物語は小さいが、それが大きな世界を照らしもする。過去の記憶・追慕、未来への希望・不安が交錯しながら、青春小説的な色調をおびていく。それが全篇を彩る植物の瑞々しさと相まって、読者へ穏やかに沁みてくる。
(牧眞司)
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