「何をされるかわからない」フランス・ミステリー『黒い睡蓮』
かつてフランス・ミステリーは「何をされるかわからない」ジャンルであった。
たとえば、同一人物が探偵であり犯人であり被害者であり証人であるという主人公の〈わたし〉によって語られる『シンデレラの罠』で知られるセバスチャン・ジャプリゾ。いつの間にか読者が錯視の世界に誘い込まれ、どこででどう迷わされたのか読み返すまでわからない『殺人交叉点』『日曜日は埋葬しない』のフレッド・カサック。驚きに満ちた作品群。登場人物は常に最小限の人数しか出さないが、その中で絶対に読者を裏切るどんでん返しを仕掛けてみせる『かまきり』のユベール・モンテイエ。そしてもちろん、フランス・ミステリーに大きな影響を与えた『わらの女』のカトリーヌ・アルレー。
彼らの作品は心理サスペンスという総称で呼ばれる場合が多いが、葛藤や懊悩に満ちた内面や、人間関係における愛憎をただ描くだけではなく、それをいかに文章で表現するかに細心の注意を払った。技巧だけを評価するのは作品の一面しか見ていないようで気が引ける。しかし文章のみですべてを表わさなければならない小説という表現手段において、そこまでの挑戦が可能なのかと読者を感激させるような作品を、彼らはいくつも生み出したのである。いくら賞賛してもしきれないと思う。
ミシェル・ビュッシ『黒い睡蓮』は、そうした技巧派の系譜に連なる作品なのである。
ある人物のモノローグから物語は始まる。
──ある村に三人の女がいた。
一人目は意地悪で二人目は嘘つき、三人目はエゴイストだった。
この切り出し方でまず胸が高鳴る。彼らの村はジヴェルニーという。現代美術の愛好家にとっては親しい名前だろう。画家クロード・モネが愛し、後半生をそこで過ごした地である。この地においてモネは、睡蓮を題材にした一連の作品群を描き続けた。そのジヴェルニーから、女たちは脱出を試みたのだという。語り手はさらに続ける。
──二〇一〇年の五月十三日から五月二十五日のあいだだけ、ジヴェルニーを囲む鉄柵の扉が彼女たちのためにあいたのだった。わたしたちだけのために、と三人は思った。しかしルールは残酷だった。三人のうち逃げられるのはひとりだけ。あとの二人は死ななければならない。そういうことだ。
このルールなるものについて語り手は多くの言葉を費やそうとしない。物語の幕が本格的に上がると、この謎めいた語り手は後方へと退き、女たちとは無関係に見える殺人事件についての叙述が始まる。殺されたのはジェローム・モルヴァルという地元の眼科医だった。彼には医業以上に打ち込んだものがあった。絵画蒐集と猟色である。捜査にあたる警察署長のローランス・セレナックと部下のシルヴィオ・ベナヴィッドは、被害者が複数の女性と関係を持とうとしていたという証拠を得る。そのうちの一人、ステファニー・デュパンは、ジヴェルニー村の小学校教師だった。その証言を取るために学校を訪れたローランスは、ステファニーの美貌に心を射抜かれる。
謎解きにつながる手がかりは三方向から得られるだろうという展望が示される。一つはクロード・モネの絵画、もう一つは眼科医の女性関係、そして子供である。死者のポケットの中から、十一歳の誕生日を祝う言葉が記された、モネの絵葉書が出てきたのだ。これらの要素は結末において組み合わされ、意外な形の真相を露わにする。
語りの形式も気になる小説だ。冒頭の語り手であった〈わたし〉は以降も登場し、窓越しの傍観者のようにローランスたちの捜査を見守り続ける。この独特な語りが意味するものは、解決篇が始まるまで明らかにされることはないのである。さまざまなミステリーを読んできたが、これほどまでに解決篇が待ち遠しい作品というのもひさしぶりだ。何が起きているのかを説明してほしくて、たまらなくなるのである。
ミステリーの解決篇は物語全体の再構成でもある。解決篇のページをめくるとき、読者はそれまでの物語を違った形でもう一度体験することになるのだ。その中では、作品に持っていた印象が修正されたり、はなはだしいときはまったく異なる色彩、違った構図で上書きされることになる。『黒い睡蓮』の解決篇においても、驚くべき形で上書きが行われる。喩えるならば、それまで壁だと思っていた場所が実は床だった、というくらいの変容だ。その変換に物語上の要請、必然性がある点にも感心させられる。単なるびっくり箱ではないのだ。
前作『彼女のいない飛行機』にも相当驚かされたが、本作はさらにその上を行く。
本当に、何ということをしてくれるのか、と思うのである。
そして、ビュッシにだったら何をされてもいい、とも思うのである。
(杉江松恋)
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