「一つの型にはめない復興まちづくりを」 都市工学・東大教授・大西隆インタビュー

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東京大学の大西隆教授

 「復興」――。甚大な被害を起こした東日本大震災による津波は、人や家屋だけではなく、街そのものを押し流した。あれからすでに1年が経ったが、被災地ではいまだ津波の爪痕が残っている。東日本大震災復興構想会議のメンバーの一人であり、都市計画を専門とする東京大学大学院工学系研究科の大西隆教授によると、被害が大きかった地域で具体的な街の再建が始まるのはこれからのことだという。

 大西教授が専門とする「都市計画」は、都市をどのように創るかを考える学問。単に高速道路と新幹線を建設して国土を結ぶだけではなく、地域をどう発展・成長させたら良いかや、あるいは地域に施設をどう立地したらいいのかを描いていく。

 東日本大震災の被災地で今後、新しい街づくりが行われていくなか、地震・津波に強いだけではなく、そこに住む人がいかに満足した暮らしを送られるかが重要だ。今回、東日本大震災から読み解く都市計画上の反省点は何か、「安全性」と「利便性」が合わさった住みよい街づくりのためにどうすればいいか。大西教授に話を聞いた。

■「防潮堤は完全に街を守るものではない」

東京大学の大西隆教授

――東北、特に三陸地方は歴史的に見て津波の被害が多く、その対策も施されてきた地域でした。しかし、東日本大震災の津波では甚大な被害を受けました。過去の反省は活かされていなかったのでしょうか?

 1933年の昭和三陸地震では、今回と同じような大きな津波が街を襲い、3000人くらいが犠牲となりました。それで、「元と同じ場所に再建するんじゃダメだ」という今と同じ議論があり、当時の内務省・都市計画課が「高台移転」の事業を行なったんです。しかし、一部を除いて、高台移転がうまくいかなかった。そのため東日本大震災で相当大きな被害を受けてしまったのです。

――今回の一番の反省は、昭和三陸地震の津波のあと、完全に高台移転を行わなかったことでしょうか?

 そうです。しかし高台移転が完全でなかったのは、いろんな事情があります。そもそも、高台を切り開くのは大変です。そして何と言っても、生活に不便です。何十年か何百年かに一回やってくる大災害よりも、日常生活の快適性が勝ってしまう人もいるでしょう。

 昭和三陸地震後、しばらくは漁師たちも港の近くで作業する小屋を作って、必要な時だけその小屋を使うということをやっていた。でも、だんだん小屋で活動する時間が長くなり、小屋を立派に建て替えて、それが本宅になってしまったんです。

 また、岩手県釜石市の唐丹(とうに)など、防潮堤ができて「低地も安全だろう」となってしまい、再び低地に集落が作られた例があります。結果として防潮堤は完全ではなかったため、低地の集落は大きな被害を受けました。こういう「防潮堤はあるが被害が出た」という事例は、非常に多いのです。防潮堤は完全なものではないという考えが重要になります。

■「一つの型にはめることが街づくりではない」

東京大学の大西隆教授

――防潮堤は今後どのようなかたちで再建されるのでしょうか?

 津波や高潮はいろんなレベルで起きます。いちいち浸水していては、これも大変ですよね。だから、完全ではないとは言え、ある程度のところ高さまでは防潮堤を作って街を守るようにする必要はあります。

 また今回の津波では、多くの防潮堤が倒れました。そのために、街は津波に対して無防備になったわけです。だから新しく作る防潮堤は、奥幅が広く、倒れないものにしなければなりません。防潮堤が倒れずに残っていれば、少なくともその高さまでは津波を防ぐことができ、街に入る水量が少なくなります。ただ、津波を完全に防ぐことができるわけではないことを決して忘れてはいけません。

――防潮堤だけあればいいわけではないという考えのもと、街を設計・再建していくわけですね。

 そのとおりです。人間生活には、「便利さ」と「安全性」の両方が必要なのです。だから、住宅は安全重視で高台に、工場や商店などの産業機能は便利さを重視して従来の低地に再建するといった方法を取らなければならないでしょう。

 また、産業機能を再建した低地には、津波が押し寄せた際に逃げ込める「避難ビル」があるといいですね。津波は高い建物に対し、よじ登っていく性質もあります。だから、避難ビルは、津波で倒れない構造であることはもちろんのこと、水が上がってくる高さが計算された設計にする必要もあります。

東京大学の大西隆教授

――そういった街づくりにあたり、課題となっているものは何でしょうか?

 実際のところ、被災地から近くて移転できるような高台の多くは、既に宅地として使われています。だから、そう簡単には移転はできないという問題は残されています。

 また、特に漁村集落はコミュニティの繋がりが大切だと思います。しかし、街の中心のコミュニティは、漁村集落のようには強くないわけですよ。商店街はそれなりにまとまりがあるのだろうけど、新しく引っ越してきた人もいるで、そうじゃない人も混在しています。

 だから、いろんなタイプの住み方を提案するということも重要になってくるでしょうね。いろんな人のいろんなニーズがあるので、ある一つの型にだけはめるようなことにはならないようにしないといけないですね。

――頑丈な防潮堤や避難ビルは、景観上の問題を引き起こしたりしないのでしょうか?

 家を出た途端に城壁(防潮堤)がある・・・。それは住民にとって、まったく別の日常風景となるでしょうね。長く暮らしていくためには、景観も非常に重要な要素になってきます。だから、住民はいろいろ悩んでいますよね。その対策としては、ウッドデッキの上に家を建てたり高台に移転したりして、城壁の下で暮らすイメージを払拭する方法があります。

 避難ビルも、建て方次第では違和感が出てしまいますよね。だけど三陸地方はリアス式海岸なので、むき出した岩のような山が平地に迫っているところがあるわけです。その山に沿って避難ビルを建築すれば、多少圧迫感は和らげることができます。

 いま被災地の各市町では基本的な復興計画を作っています。「この集落はこの高台に移転しようか」や「ここはそのままにするから防潮堤をこのぐらい作る」などの段階です。建物を具体的にどうデザインするかなどは、まだこれからなのです。それぞれの場所で、なるべく日常生活に与えるマイナスの影響が少ないように、しかも安全性を確保することをこれから追求しないといけないでしょう。

■津波避難に重要なのは「多段階的工夫」

東京大学の大西隆教授

――今回の津波で浮き彫りになった都市計画上の問題点は多いと思います。たとえば、避難場所についてはどうでしょうか?

 被災地では、長い階段の先にある高台が、避難場所として設定されているところがありました。これは、高齢者にとって重い負担となります。だから、避難訓練などに使う避難場所には、近くの集会所が使われていました。その避難場所、訓練に使われているだけで本当は危険なんですが、住民たちはそこへ避難してしまった。そこに今回の津波が来て、多くの方が亡くなったんです。

 まず避難場所は、たとえ訓練であっても、警報の「空振り」であっても、高台にしなければなりません。ただ現実的には、いつも高台まで逃げるのは大変なので、その手前に、海の見える広場を設けます。そこで海の様子を確認し、安全そうであれば待機。もし警報の空振りではなく、大津波が来る兆しがあれば、さらに上がって本当の避難場所に行けるようにする。そういう多段階的な工夫が必要なのです。

――車に乗って、津波から逃げた場合はどうでしょうか?今回の場合だと、渋滞に巻き込まれ逃げ遅れたという話も聞きますが。

 これまでは、災害が起きた場合、車を捨て歩いて逃げるのが原則でした。例えば、大都市ではみんな車で逃げると渋滞が起きます。さらに建物が倒壊すると、それが道を塞いでしまい、車で移動できるかさえ分かりません。しかし、実際に助かった半分くらい、場所によっては6割が車に乗って逃げた人です。

 車は、病人や高齢者を乗せたり、遠い避難場所にも早く行けたりします。付け加えると、車は財産ですから、心理的にも持って逃げたいわけです。そういう心理にも応える必要があると思うんですよね。

 だから、倒壊して道を塞ぐものはない農地が多い地域ですと、少し広めの避難ルートを作らなければなりませんね。また、避難場所・避難所には広い駐車場を設置しておく必要もあるでしょう。

■街の中心施設の建て替えをきっかけに「減災」の長期作戦を

東京大学の大西隆教授

――今後起こる可能性が高いと予想される地震・津波への対策はどうすればいいのでしょうか?

 防潮堤・防波堤・避難ルートの整備と、高いところに住むこと。そして何よりも避難場所へ逃げること。これらを組み合わせた「減災」の考えが大事になります。

 防波堤、防潮堤、避難路、避難場所も徐々に作っていくとして、問題は集落を高台に上げることでしょうね・・・。大変ですよ。だから、まず小・中学校や病院、高齢者施設から安全なところに移していくことになります。

 小・中学校は、地域によってはまだ中心施設です。そこを核にして、老人福祉施設や病院を移していくと、人が集まる拠点ができる。一度にすべてを移すのは大変だから、そういった施設をまず、建て替えの時期に合わせて、安全な場所に移す。その周りに徐々に住宅ができていくような、少し長期作戦をとらないといけないでしょうね。

(聞き手:寺家将太、写真:山下真史)

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