高速道のゴミ箱に捨てられている福島みやげの菓子箱や野菜
今回はつるりん和尚さんのブログ『つるりん和尚のああいえばこうゆう録』からご寄稿いただきました。
高速道のゴミ箱に捨てられている福島みやげの菓子箱や野菜
フリーライターの鈴木智彦氏が『週刊ポスト』に書いた。
今までにこうした話はさんざん聞いてきて、そして見てきたものにとっても、活字となって改めて認識をする時、深い憤りと悲しみがこみあげてくる。
先日、その鈴木氏の取材を受けたが、彼は実にバイタリティーにあふれた人物だ。
寸時を惜しんで真実を探し求める貪欲さと、ここだと狙い定める鋭さには身震いを覚えるほどだ。
いま、福島の人間にとって、こちらからみやげ物を送ったり届けたりする時、たいへんな苦痛を強いられることが多い。
食品だけに限らず、「ここから物を出すな」という無言の重圧を大なり小なり感じる県民は多いはずだ。それを被害妄想と言っていただくのはありがたいが、この立場にたたなければ解らない。
差別はいつも受け手側に立たないと理解できない。
する側がいくら言葉を弄そうとも差別やいじめを受ける人間の苦しみは想像でしかないのだ。
福島では「これは大丈夫」という言葉を添えて、みやげや贈り物を渡す。
実際に測っても数字が出ないことをそれなりに確認しているからこそ言うのだが、コメの“安全宣言”を出して撤回した県の人間では説得力に欠けるのだろう。
しかし、想像力を働かせることの大切さを知ってもらいたいと思う。
究極的には解らないことでも想像力を働かせることで近づけることはある。
妄想族は御免だが、豊かな想像力こそが人間社会を円滑にする潤滑油であることは論を待たない。
そして一方、福島は確かな数字を提示することへ、細心の注意とたゆまぬ努力が必要だ。それは、たいへんな労力と苦痛を伴うことになるが、あまんじてその努力を惜しまないことが大切なのだと思う。
“隠さない”“現実を受け止める”官も民も一体となって、苦悩を引き受けることによって、言葉の信頼を勝ち取っていくのだ。
悲しい。
悲しいが、差別に対する時こそ、そうした毅然(きぜん)とした姿勢が求められることを忘れてはいけない。
執筆: この記事ははつるりん和尚さんのブログ『つるりん和尚のああいえばこうゆう録』からご寄稿いただきました。
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