独自の二十一世紀日本を舞台にした異色の侵略SF
『光の塔』は、日本SF史を語るうえで欠くことができない名作だ。初刊は1962年。解説で日下三蔵さんが指摘しているように「SF専門作家による長篇SFの第一号」であり、その歴史的価値もさることながら、その大胆なアイデアと議論喚起的(コントラヴァーシャル)な展開は、こんにち読んでも力強さを失っていない。
第三次世界大戦後の未来。国家間の緊張は相変わらずながら(アメリカもソビエトも勢力を失っていない)、そのはざまで日本は独自の地歩を築いていた。科学技術分野ではとくに宇宙開発に傾注し、世界初の木星船の就航を控えていた。そんな矢先、東京が謎の絶電現象にみまわれる。その影響は送電ばかりではなく、電池式の装置までに及んだ。すぐに復旧したものの、同様の現象は二十四時間ごとに発生する。やがて同様の現象は世界各地で起こっていることが確認された。
主人公の宇宙軍医官、水原史生(みのはらしお)中佐は火星から帰還したばかり、渋谷の宇宙省へ報告に訪れたときに、この絶電現象に遭遇する。あとから思えば、火星からの帰途で目撃した謎の光は、この前ぶれだったのだ。
アクシデントはこれで終わらなかった。まず、東海市の原子力研究所から核燃料が盗まれる。たまたま私用で近くに来ていた水原は、現場調査のために呼びだされる。それと前後して宇宙省の木星号が紛失。巨大な宇宙船が忽然と消えた謎を解くべく、水原は大学時代からの旧友で、いまは保安庁で総局長を務めている照岡仍次(しょうじ)に協力することになった。宇宙省で捜査方針を話しあっているとき、その場に謎の光があらわれる。直径三メートルほどの球状で、冷たく機械的な蛍光だった。その光に接触した警備長、賀藤守介—-水原とはかつて宇宙軍新兵時代に同期だった—-が消失する。
これが、謎の侵略の前哨戦だった。ほどなくはじまった苛烈な武力攻撃の前に、人類はなすすべもなかった。
奇怪なのはこの敵が、いかなる意味でもわれわれと意志の疎通をはかろうとしないことであった。何等かの要求、あるいは通告、または降伏の勧めなどは絶えてかれらの攻撃にともなわなかった。そこはただ理不尽な破壊があるばかりだった。また明らかに知性の意志と方法に準じて活動しているにも拘らず、ただ一度東海に異様な類人間型のひとつが現れた以外、けっしてその理機の主(あるじ)がわれわれにその姿を見せたこともなかった。
「光」と名づけられた侵略者に対抗するカギがあるとすれば、賀藤が消える前に残したメッセージ「MRチェHHHHT! Kシュルたのむ!」を解くことくらいだった。警備長というのは賀藤の仮の姿で、実際は諜報員なのだ。彼は何か情報を掴んでおり、それを他人に知られず水原だけに伝えようとしていた。このあたりから物語は、ミステリとしての興趣が濃くなる。
さて、私が『光の塔』を最初に読んだのは中学生のころ(《ハヤカワSFシリーズ》版だった)で、そのときはSFとしての斬新さ—-前代未聞の侵略物語—-と、舞台設定とクセのある文章とが相まって立ちのぼる独特のアナクロニズムが印象に残った。アナクロニズムといったが、それはかならずしも時代遅れということではない。時流に即した文体はほどなく古びるが、今日泊亜蘭の独特な表現はもともと別世界を構成しており、つねに読者の社会観や未来観を異化する。かんたんにいえばバリントン・J・ベイリーやジャック・ヴァンスを読むように、今日泊亜蘭を読めばいいのだ。
たとえば、水原中佐の言葉のはしはしにのぞく、軍人らしい発想あるいはナショナリズムや血統主義には少々たじろがされる。しかし、いうまでもなく、主人公の価値観がそのまま作者の信条ということはない。また、よしんば重なる部分があったとしても、その思想は物語終盤でアイロニカルに相対化されるのだ。はじめに「議論喚起的」といったのは、そこである。その背景に人類史の眺望があるのだが、詳しくいうのはひかえよう。この作品の核心である侵略者の正体—-それはとりもなおさず侵略SFから大きくシフトチェンジしていく先のアイデアだ—-と深くかかわるからだ。このちくま文庫版ではじめてふれる読者の興をそいではいけない。
もっとも、私がむかしに読んだときは、その核心のアイデアはSFファンのあいだで広く知られていた気がする。「そんなSFが成立するのか?」と関心を持って、ハヤカワSFシリーズ版を手にしたのを覚えている。また、このちくま文庫版にも再録されている、野田昌宏さんの解説「今日泊亜蘭氏と〈光の塔〉のこと」(ハヤカワ文庫版に寄せたもの)では、こともなげに明かされている。
野田さんによれば、そのアイデアそのものは、今日泊さんが参加していたSF同人誌〈宇宙塵〉の例会で、議論されていたという。たしかにロジックとしては、伝統的なSFの延長線上にあるもので、思考実験としては格好の題材だ。しかし、『光の塔』の凄みは、そのロジックの向こう側にある。先ほど、この作品はミステリの興趣があるといったが、それは謎へと漸近していく「物語の動き」のことであり、クライマックスで明かされる「動機」についてはアンチミステリ的とすらいえる。さすがに中井英夫『虚無への供物』には及ばないが、尋常ならざる情念が流れている。人間性が無化された境地で、なお消すことのできない怒り。私怨と公憤との区別すら意味がなくなる、たぎるような執着。それはまぎれもなく戦後文学の思想のひとつのかたちであり、いまだに解消されずにいる。それどころか、この二十一世紀において、いっそう切実さを増している問題だ。
まあ、あまり鹿爪らしく考えることはない。野田さんが指摘しているように、そこにあるのは「もうこの世の中じたいが、”奇っ怪陋劣”の限りだみたいな顔をして、ひとりでタバコをふかしている今日泊氏の醒めた眼」なのだろう。重いテーマとうらはらに、物語は非常に明快でメリハリが効いている。愛すべき人物も多数登場する。
私がとくに面白かったのは、光を退けるために奮闘する情報官の柴田拓三中佐だ。モデルは〈宇宙塵〉主宰の柴野拓美さんだという。柴田中佐は文学を解する希有な軍人だが、その文学観がまた独特なのだ。水原中佐は、こんなふうに表現している。
[柴田中佐の文学論は]何やら怪し気な筋道のものなのであるが、それにしても躍起になって自説を論じ立てるその稚気と真率さには、こぞって将校的軍曹じみた他の閣僚どもより遙かに人間らしいものがあった。
「ばかな! はかな! そんな事はもう古い考えです。文学そのものがやがて変るのだ。もし貴方のいわゆる人間観にしてもしかく人間的なものならばだ、生命即闘争の宿命を背負ってきた生物たる人類の、いかに生残るか、いかに闘いいかに捷(か)つかという永遠の命題の顕現こそ、また文学に非ずして何ぞや! です」
—-私は東京へ飛ぶあいだ中この調子でやられて閉口頓首したが、同時にそういう珍説我見を断固として枉(ま)げないかれに不思議な愛情を覚えたのも事実である。
もちろん、現実の柴野さんはこれほど調子はずれではないけれど、人類的視野に立っての文学理解という点、稚気と真率さはまさに生き写しだ。このほかにもSF関係者が何人もモデルとして登場している。
(牧眞司)
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