“脳死判定・臓器移植”のグレーゾーン

access_time create folder政治・経済・社会

2010年より改正臓器移植法が施行されたのはご存知だろうか。
これにより、本人の意思が不明な場合でも、家族の承諾のみで脳死臓器提供が可能になった。“本人の意志が不明である”ことは、“拒否の意志表示がない”ことと同義となったと考えてよい。もしも私に脳死臓器提供への違和感があったとしても、カードにより積極的に拒否の意思を表示するか、家族に日頃からその意思を伝えるかをしていない限り、私の意志に反して私の臓器が提供されることは十分にありえる。

ここ日本においては、“臓器移植を前提とした場合にのみ”、脳死が人の死と定義される。つまり、臓器提供の意思がなければ、脳死判定自体が行われない。これは、患者が明らかな臨床的脳死状態(脳幹反射の消失・自発呼吸の停止など)にあっても、臓器提供の意思がなければそれを脳死、すなわち人の死とは認めないことを意味する。

「あなたの意思で助けられる命がある」とは、何とも耳に心地よい言葉だ。しかし、現状を鑑みて思うに、脳死臓器移植に“私の意思”が反映される余地はそう大きくはない。拒否を表明しなければ同意として扱われ、その場合にあなたが脳死かどうか、つまりはあなたが死亡したかどうかを判断するのはあなたではなく、あなたの家族だ。

日本臓器移植ネットワークが発行する小冊子には受給者(レシピエント)からのサンクスレターが掲載されている。それはまさしく脳死臓器移植によって助かった命の物語である。しかし、臓器提供が極端な美談として語られることはつまり、あなたの意思決定を代行する家族に脳死臓器移植の利点ばかりを強調する刷り込みとなりうるのではないか。

人の意思とは不確定なものだ。もしも私が臓器の提供を希望していたとして(それには免許証の裏面にチェックを入れるだけだ)、もしも何らかの事故に遭ったとき、意識を失う最後の最後で私は私の臓器を他人に提供することに躊躇(ちゅうちょ)するかもしれない。それでも私の臓器はその数時間後に誰かの身体に移植されてしまうだろう。

そもそも私の意思を最もよく理解しているのが家族である保証はない。それはかつての恋人かも知れないし、顔も知らないネットの話し相手かも知れない。しかし私の意思を代行できるのは法律上の家族に限られる。ライフスタイルが多様化した社会において、これはあまりに画一的と言わざるを得ない。

脳死臓器移植が取り返しのつかない人の死という問題をはらんでいる以上は、私の意思をなるべく揺るぎなきものにするための熟慮が必要だろう。脳死臓器移植の利点ばかりでなく、欠点もまた広く知らしめられるべきであり、そのうえで一人一人が“自分の意思”と呼ばれるものを決定するべきなのではないだろうか。

断っておきたいのは、脳死臓器移植は例えば末期の腎不全などにおいて唯一の根治治療となるという点である。該当するレシピエント(受給者)はこの瞬間も文字通り命がけでドナー(提供者)を待ちわびている。私は脳死臓器移植という医療技術そのものを否定するつもりはないし、病に苦しむ患者が救われることを願ってもいる。

しかし、現行制度に倫理上の問題点があるのもまた事実であり、その問題点は看過されるべきではないと私は考える。そこで私は移植の実務を司る都道府県臓器移植コーディネーター某氏の講演会に参加し、“自分の意思”を熟慮することの重要性、そしてそれを他人が代行することの危うさについて質問した。

おそらくは私など比較の対象にならないほどの論客とこれまでに何度も議論を重ねてきたのだろう。氏の返答はよどみなく、けれど議論はかみ合わなかった。

「誰かがマンションを購入するとき、日当たりや通勤の利便性など、様々な条件を熟慮して購入という決定をする人もいれば、難しく考えず直感的に購入する人もいる。それはどちらが正しいということではなく、人それぞれである」

「また、誰かが例えば事故などで死亡したとして、その人が心のなかで自分をキリスト教徒だと信じていたとしても、それを家族に伝えなければ、おそらく家族はいわゆる仏教様式の葬儀をあげるであろう。それは考えても仕方のないことである」

これが氏の返答であった。このことについての感想こそ人それぞれであろうが、敢えて付記するとすればこれは人の死についての話であり、マンションと同格に語られるべきものではない。また、考えても仕方がないから考えなくてもいいとするべき類の問題でもない。これはまさしく現場の論理であり、理念を問う質問とはかみ合うべくもなかった。

氏は私の質問を“枝葉のこと”と呼んだ。「“枝葉のこと”を考えても仕方がない」というふうに。私としては“根幹のこと”のつもりであった。そこで氏と深い議論がなされなかったのはひとえに私の未熟さによるが、氏の背景に議論を許さぬ頑なさが垣間見えたのもまた事実である。

脳死とは不可逆的な状態であり、意識や自発的な生命維持機能が回復することは起こりえない。私自身これまでは脳死臓器提供をいとうつもりはなかったし、むしろそれを望んでいた。しかし、臓器移植法改正について知るにつけ、そして現場の論理への違和感から、私は脳死臓器提供を希望しない旨の意思表示をすることにした。

迷いを抱えたまま自分の臓器が提供されることを望まないのであれば、現状ではそれしか方法がない。私にはもう少し考える時間が必要であるようだ。
一日も早く臓器の移植に関する法律が再改正され、それが本当に“人の意思”を尊重するものになることを祈っている。

※この記事はガジェ通ウェブライターの「あまのじゃく」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?

  1. HOME
  2. 政治・経済・社会
  3. “脳死判定・臓器移植”のグレーゾーン
access_time create folder政治・経済・社会
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。