“フォローする”ということ

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「そんなことで一喜一憂するなよ。たかが『twitter』じゃないか」と言われるかもしれないが、やっぱり『twitter』で一定のポジションを獲得している方や、研ぎ澄まされたツイートで異彩を放っている方にフォローしてもらうというのは、純粋にうれしい。なぜかといえば、彼ら自体がある種のコンテンツであり、メディアだから。ただ、ミーハー根性だけであれば、わざわざブログに書いたりはしない。

『twitter』は『Facebook』や他のソーシャルメディアと違い、自らのアウトプットでもってカスタマイズし、メディア足らしめることができる。単なるひとり言ツールの域を超えた時点で、どこの誰に見られているか分からず、どんな受け取られ方をするかも分からない、メディア的レッテルを貼られる影響力というものを押し付けられる。つまり、潜在的に不確定要素の高いコミュニケーションの中に身を投じることになる。大抵は、本人の望むところではない。あくまで『twitter』なのだから。ただ、それでもそれを受け切ろうという器量の人がいる。

そういう方々を、私は“フォローされてうれしい人”と定義する。芸能人やスポーツマン、専門家のように、ある種“期待されることを生業とする人たち”とは本質的に違う立場の。私はそういう人たちの、自らの知識、仕事、感性、生活、主義……あらゆるものの結晶としてのツイートをフォローしている。私自身はたいしたアウトプットができなくても、心を込めてフォローすることはできる。そして、それが『twitter』だけに許された美点だと思っている。むやみに絡んだり批判するのも結構だが、代わりに自分が心から相手をフォローしていることを伝えてみたらどうだろうか。

もちろんやり方は自由だ。暗にほのめかしてもいいし、“RT(リプライ)”で自分なりの言葉を投げかけてもいい。個人的には『twitter』の魅力はここにあると思う。アカウントを作るだけでは本質的なフォロワーは絶対に増えないし、心を込めてフォローすることの意味も知ることはない。メディア側とフォロー側という二極化で考えるのではなく、奮闘し支えられ輝きを放つアカウントの存在が、いかにしてメディアとなり得るのか、その構造を考えた上で、『twitter』とはを語るべきなのではないだろうか。

そこを実感できないから、安易に『twitter』の価値を貶め、『Facebook』は全てを包含するかのような言い回しになる。部分的な事実と、規模の大きさという優位性で判断しているように思えてならない。要は、あまり使い込んでないだけなのだろうが。好みや用途もあるのでどちらがいいという話ではないけれど、まさにそこに示唆がある。どっちがいいどっちに価値がある、そういうことが意味をなさないのが『twitter』であり、分かる人同士が繋がればそれでいい。

それが理想的な相互フォロー。フォロワーを増やすための方法としてではなく。同様に分からない人はどこまでいっても分からない人。そういう構造。単純に「なんかいい」「好きだな」「素敵だな、放っておけないな」「気持ち分かるよ」そういうものがお互いに共有されればそれだけでいい。「なんか嫌だな」「違うな」「こうあるべきだ」「見たくないよ」そういうものは『twitter』に求める感情ではない。

『twitter』の開発者が『Follow』をどう定義したのかはわからないが、他動詞としてかなり広い意味を持つ単語であることから、さまざまな肯定的要素を包含する名称として捉えているはずだ。あくまでフォローは“肯定的”なものであり、少なくとも“RSS”のお気に入りと同様のレベルのものであるはず。まずはここを“フォロー”の出発点としたい。

ちなみに、“Follower”の辞書的な意味は以下のとおり。

1 a従者,随員 b家来; 党員,手下,子分
2 信奉者,学徒,信者,門人,弟子
3 追う人,追跡者; 模倣者

※エキサイト辞書(http://www.excite.co.jp/dictionary/)より引用

そしてその上で、まずはある一定レベルのフォロワーを持った人(相互フォローせず数千以上のフォロワーがいるアカウントと定義)を一方的にフォローする立場としてフォローを開始する。また、その際には彼らのアウトプットをどうインプットして取り扱うのかに、ある種のルール・マナーを設けることが必要となる。つまり、フォロワーとしてなすべきでないことを自覚するということだ。

ただ、なすべきでない否かは、モラル、価値観、センスといった説明・共有の難しい抽象的なものに依存するため、しばしば自由は自分勝手とすり替えられ、“フォローしている”という状況が忘れ去られる。悪気はないがむやみに絡んだり誤認したりするフォロワーは、情弱、バカ発見器といったある種の揶揄(やゆ)の対象となり、ひどい場合はスパムとしてブロックされることとなる。“フォロワーではないもの”として。

このように不毛な関係性から脱却するために機能としてノイズを除去することはできても、フォローの本質は共有されない。というより、あまりそこについては深く語られていない。東浩紀氏が「情報はフィルタリングできるが、人はフィルタリングできない」というようなことを言っていたが、ここが解決しないがためにどうしてもフォロワーの価値がおとしめられてしまう。

また、それに拍車をかけるのが、批判するために匿名のアカウントをつくって執拗に攻撃するフォロワーだ。内田樹氏は『twitter』上で茂木健一郎氏に「彼らが執拗(しつよう)に罵倒を投げつけるのは、それが“効果的”であることを知っているからだ。“そのような言葉を口にできる人間がいる”という事実そのものによって、私たちの生きる力は少しずつ殺がれる」とコメントを寄せていたが、ここに見られる側と見る側における関係性の崩壊が見て取れる。

しばしば匿名性が問題視されるが、匿名性それ自体が悪なのではない。むしろ、“フォローしていないこと”アウトプットに対して反応しつつ“徹底的にフォローしないこと”が悪なのだ。そして、この人工的、作為的な悪こそフィルタリングできない。確かに『twitter』はこの重大なリスクをはらんでいる。だからこそ、そうあるべきではないことをインサイトすることが肝要になる。フォローする側に“フォローする”ということは何か、という気づきがなければ成立しない。

だからこそ私はしっかりとフォローしたい。誹謗(ひぼう)中傷や誤解や羨望や嫉妬や怒りや哀しみなどを一方的に投げつけられても、それでもアウトプットをやめない人たちをフォローしたい。私がフォローし、フォローされたいのはそういう人たちだ。「よくやるね」と言われるかもしれないが、私はその人たちの言葉には本気で耳を傾けるし、その人に見られるに値するものを少しでもアウトプットしようと心がけたい。

何をつぶやいていいかわからないという方は、自分がフォローしている人のことをもっと語ってはどうだろうか。直接リプライをしなくとも公式“RT”でも伝わるし、アカウントを紹介してもいいし、ツイートの感想を述べたらいい。ものすごい数のフォロワーを抱えていても、意外と見ているものだし、本気でフォローしているか、文脈を理解しているかというのはちゃんと伝わる。

よく考えてみると、こんなツールは今までなかったことに驚くはずだ。マスコミ電話帳なりを調べても全く連絡先がわからずアプローチしようがなかったような人でも“フォロー”でき、場合によっては相互フォローし、コメントのやり取りや、何らかの価値観、ユーモア、感性的な世界などを共有できる。これは間違いなく、『twitter』がはじめて実現したこと。

だからこの価値を、フォローすることで担保していたいと思う。これが、私がフォローという言葉にこだわる理由であり、『twitter』が好きな理由だ。

※画像引用元:『flickr from YAHOO!』
http://www.flickr.com/photos/rosauraochoa/3419823308/

※この記事はガジェ通ウェブライターの「青木 勇気」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?
物書きとして活動しています。会社員時代は、コピーライター、広告制作、Webエディター、USTREAMの企画ディレクターを経験。ライフワークとして小説や評論を書いており、大学在学中に書いた処女小説「梨花、」は文芸社から出版されています。建築評論などに関しても、海外メディア(韓国のインテリア雑誌)で取り上げられました。また、学生時代哲学を専攻したこともあり、抽象的な文章を得意としています。題材がなくともゼロベースで自分の文章を書き上げる自信があります。

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