古典部シリーズ最新作『いまさら翼といわれても』
「奉太郎くんたちには、ちゃんと高校生活を送らせてあげたいんです」
いつぞやのインタビューで米澤穂信はそう語った。デビュー作『氷菓』から現在に至るまで書き続けられている〈古典部〉連作は、神山高校に通う四人、折木奉太郎、千反田える、福部里志、伊原摩耶花の学校生活を中心に綴られていく物語だ。
創作物の登場人物には二通りある。歳を取らないか、取るかの違いだ。〈古典部〉の4人は後者である。開幕時は神山高校の新入生だった彼らの時間は一作ごとに着実に過ぎ、第四作『遠まわりする雛』のようにそれまでの巻で語られたことの隙間を埋めるような短篇で構成された一冊もあり、各人が成長し、関係を変化させていった。『氷菓』が世に出てから十五年、その間に六冊という刊行ペースは決して速くはないが「ちゃんと高校生活」を送らせるために、作者は心を配って登場人物たちを育て続けてきたのである。
最新刊『いまさら翼といわれても』には高校二年次の初夏の出来事を描いた六篇が収められている(ただし収録順は必ずしも時間軸には沿っていない)。『遠まわりする雛』の表題作が四月の祭事、第五作『ふたりの距離の概算』が五月末に行われたマラソン大会における出来事の話だから、それに続いている。収録作の特徴は、登場人物たちの個人史を掘り下げる内容になっていることだ。特に折木奉太郎の過去に触れたものが多い。「連峰は晴れているか」は、彼が鏑矢中学時代に出会った英語教師についての物語、「鏡には映らない」は同じく中学の卒業制作で奉太郎がとった不可解な行動を、摩耶花が調べるという話である(後者の題名は秀逸で、読み終えた後に成程と感心した)。
シリーズの愛読者にとって特に興味深いのは「長い休日」だろう。折木奉太郎といえば「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」をモットーとする徹底した省エネ主義者だが、彼がなぜそういう心境に至ったかを初めて自身の口から語るという内容だからだ。とある休日、思い立って散歩に出かけた奉太郎は荒楠神社(シリーズ第三作『クドリャフカの順番』で登場した十文字かほの生家)で千反田えると思いがけなく遭遇する。そして彼女から決定的な質問を受けるのである。
長い長い休日の話であると同時に、『遠まわりする雛』で決定的な変化を迎えた奉太郎とえるの現在の関係性についての物語でもある。奉太郎とえるの間に存在するものが本書の中では見逃せない要素となっており、前出の「連峰は晴れているか」におけるさりげない一行(128ページ)や、本編の幕切れの一言などが積み重なって読者の心に消えがたい印象を植えつけていく。それらが一巻の最終篇である表題作のための、重要な伏線となるのである。
「いまさら翼といわれても」は、えるの物語だ。神山市が主催する合唱祭に参加する予定だったえるが、本番を前に行方不明になってしまう。同行していた人物と一緒にバスに乗っていたはずなのに、彼女だけが会場に姿を現さなかったのだ。心配した摩耶花に呼び出された奉太郎は、えるの行方を探し始める。これまで書いてきたように二人の関係性を描いた挿話として重要であるのと同時に、動機捜しのミステリーとしても興味深い。言うまでもなく、えるの心理を探ることが主眼となる。その「なぜ」の落としどころが、精密な計算によって定められているのである。幕切れの形に、シリーズ外作品『儚き羊たちの祝宴』を連想した。
奉太郎とえるについてばかり書いてきたが、私が最も評価するのは伊吹摩耶花が主役を務める「わたしたちの伝説の一冊」である。古典部と漫画研究会を兼部する摩耶花は(というよりも活動の重点があるのは後者)、ひそかに雑誌に自作を投稿し続けていた。その彼女が漫画研究会の「描く派」と「読む派」の争いに巻き込まれてしまうのだ。短篇の題名は『クドリャフカの順番』で漫画研究会の上級生である河内亜也子が口にする言葉に由来している。
—-どんな漫画だってさ。全部名作になりうるじゃない。誰かの『わたしの心の一冊』には、どんな作品だってなりうるじゃない。
創作という行為、それにこめられた思いについての物語であり、過去を振り向くのではなく未来を見つめる視線を小説の形で表現した、優れた一篇である。この作品があるからこそ、『いまさら翼といわれても』という短篇集は主人公たちの過去だけではなく未来までを含んだ幅の広い作品になった。収録作の中では最後に書かれており、米澤穂信の現時点における青春小説作家としての到達点を示すものと言うこともできる。
ここまで触れてこなかったが、巻頭の「箱の中の欠落」(元ネタは竹本健治『匣の中の失楽』)は、生徒会の選挙管理委員となった福部里志が奉太郎に不正についての相談をするという内容である。徹底して「どうやって」にこだわっており、「なぜ」の小説である巻末の「いまさら翼といわれても」と対比すると本書のミステリー短篇集としての際立った充実度が理解できる。また、「いまさら翼といわれても」より本作の方が後に書かれており、執筆段階で作者は短篇集としての完成形をある程度考えていたはずである。全巻を通読してきた後に再び目を通すと、思わぬ発見がある。ぜひ二回読むことをお薦めしたい。
(杉江松恋)
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