『千日の瑠璃』12日目——私は靴だ。(丸山健二小説連載)
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私は靴だ。
踵が磨滅し、とうとうつま先の部分がぱっくりと割れた、如何にも勤め人向きの靴だ。小春日和の午後、私は私よりも数倍くたびれて風采のあがらない男といっしょにバスを降りた。そして丘の上の家へ帰るために、いつもの投げ遣りな一歩を踏み出した。そのとき彼は、私の寿命が尽きかけていることに気づいて立ちどまり、もう長いあいだ財布にこもったままの一万円札を思い出した。
通りを挟んで眼と鼻の先に、靴屋があった。しかも女主人が表に出て、漁色家たちに評判のいい愛嬌を振りまいていた。彼女は丘を見上げながら、「毎日あそこから通うんではねえ」と言って、私に同情を寄せた。酒太りした男は、歳をとって足弱になったらとてもあんなところには住んでいられない、と言って苦笑した。彼は雨を弾くという新製品を履き、私を小脇に抱え、上機嫌で店を出た。いつになく軽やかな足どりが、暖かくて楽天的な風と光をさし招いた。
だが、そう長くはつづかなかった。男は私のほかには何ひとつ変えられない立場を悟った。倍った瞬間、鬘をつけた彼の脳天に、婚期を逃しつつある長女と、不治の病に冒された長男と、三年後に迫った定年退職のことがぐさりと突き刺さった。苦役から解き放たれた私は袋ごと屑籠に投げこまれ、大量生産された靴としての、靴らしい一生を終えた。男の足音が遠のき、コオロギが鳴き出した。
(10・12・水)
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