幸福のための不完全性、本物の感情を奏でるいにしえの物語
全三冊となる人類補完機構全短篇の第二巻。最終巻『三惑星の探求』には《補完機構》の枝篇(いちおう同じ歴史線だが別個のシリーズ)《キャッシャー・オニール》と《補完機構》以外の短篇が入るので、ふつうの意味での《補完機構》はこの『アルファ・ラルファ大通り』で大詰めを迎える。前巻『スキャナーに生きがいはない』から通じて未来史の時系列順に作品が配列されており、本書に収録された七篇は西暦一四〇〇〇年から一六〇〇〇年ごろが舞台だ。この期間の重要なできごとはふたつ—-「下級民の独立」と「人間の再発見」だ。両者ともある時点で前ぶれもなくおこなわれたのではなく、それへ至る長い胎動があった。各作品はストーリー上ではごく緩やかなつながりしかないが、同じテーマをさまざまに変奏しているとも見なせる。ひとことでいえば自由意志の根拠だが、スミスはそれを認知科学や哲学で追究するようなことはしない。結論を出すことではなく、実感として示すこと。それが小説の力だ。
すべての人間の福祉のために人類補完機構が設立された経緯は、第一巻『スキャナーに生きがいはない』収録の「昼下がりの女王」で描かれていた。本書の第一篇「クラウン・タウンの死婦人」はそれから九〇〇〇年を経た時点で、危険のない平穏な生活はほぼ達成されている。なにしろ生まれる前から人生が保証されているのだ。人間プログラム省なる機関があり、ひとびとをあからじめ社会が求める職業に合致するよう遺伝子レベルで調整するので、誰もが自分にふさわしい能力が最大限に発揮できる職業に必ず就くことができる。
しかし、ささいな偶然の巡りあわせでミスマッチが起こる。ネットワークで発生したエラーは事前にマシンが検知をしてアラームも出していた。しかし、チェックを担当する人間がそのとき暇にあかせて歌をうたっており、マシンはその歌詞を訂正の要なしの指示だと受けとめてしまう(二重チェックがかかる仕組みだったが、歌詞がリフレインだったのだ!)。エラーがそのまま通り、フォーマルハウト3の総合出生リストに、本来なら必要のない《平療法士、女性、人体機能の異常を手持ち素材によって修復する直感的能力》の職が載った。かくして生まれたエレインは、自分の能力を持てあまして町をさまようはめになる。フォーマルハウト3に患者などほとんどいない。動物から改造された下級民は病気になるが、療法士が下級民の面倒をみるなんてことは誰ひとり思いもよらない。病気の下級民はただ処分されるだけだ。
エレインは町の片隅にうち捨てられたドアを発見し、きまぐれに開けてみる。下り階段の先に、いきなり広がる日の光と風景。町の下に、古い都市がある! なんというパノラマ! 鮮烈なイメージを喚起するスミスの筆致が素晴らしい。
エレインは旧シティで、レディ・パンク・アシャシュとド・ジョーンに出会う。レディ・パンク・アシャシュは機械だが、百年以上前に亡くなった補完機構長官の全人格が移植されている。ド・ジョーンは犬を原型とする下級民の娘だ。旧シティに隠れ住む下級民たちは、代々にわたってド・ジョーンという子どもを用意して運命が動きだす瞬間を待っていたという。その瞬間とはエレインの到着だ。レディ・パンク・アシャシュは、その機械の部分で超高精度の計算をおこない、いずれエレインがこの地にやってくることを予知していたという。そして、これから起こることもわかる。
はたしてそんなことが可能だろうか? 先述したように、エレインの誕生は補完機構のプログラムに生じたエラーが周到なチェックシステムを偶然にすり抜けた結果だ。レディ・パンク・アシャシュは生きていたころは補完機構の長官だったが、機械になったいまは補完機構がコントロールする秩序から逸脱しているようだ。レディは「ド・ジョーンの物語」によって下級民たちを解放へと導いていく。
登場人物たちは自分たちの決断で新しい歴史を開いていると信じているが、読者はド・ジョーン(D’Joan)という名とクライマックスの情景からジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc)伝説の再現だと気づかぬにはいられない。スミスはこの下級民の蜂起を後年から振り返る叙述をとって、わざわざ「”火”の観念がどこからまぎれこんだのかわかっていない」とまで書きつけるのだ。もちろん、未来史の因果をたどっても突きとめられないし、レディ・パンク・アシャシュが周到に計画したわけでもない。世界内では説明のつかない物語の力学が働いているのだ。
同じような構図が「アルファ・ラルファ大通り」にもある。この作品にふれる前に、補完機構が実現した幸福な世界の行きづまりをみておいたほうがよかろう。本書に収められた二番目の作品「老いた大地の底で」では、民衆は惰性的な幸福のなかで弛緩しきっている。もし悲しんでいる誰かがいれば、なだめられ、薬をあれがわれ、幸福でいられるように人間に改造される。そんななか、死期を間近にひかえた補完機構の最古老ロード・ストー・オーディンは、あえて醜悪で無意味な文化にふれようとする。彼はこう考えた。
いまの人間のいったい何人が、古い憤りのひりつく冷たさを味わったことがあるだろう? 太古にはそいつが糧だった。しあわせを装いながら、生きるはりは嘆きであり、怒りであり、憎しみ、恨み、希望だったのだ! 昔の人間は狂ったように繁殖した。星の海へと植民しながら、一方でひそかに、またはおおっぴらに、殺しあうことを夢見た。太古の芝居は、人殺しと裏切りと禁制の恋ばかりだ。
それが味わえる場所は、いまや地底にあるゲビエットという領域だけだ。足が弱っているロード・ストー・オーディンは、ふたりの古代ローマ軍団兵の姿をしたロボットに担がせた輿(こし)に乗って出発する。もうこの旅姿が異様なのだが、ゲビエットで延々と繰り広げられている狂乱のイメージも凄まじい。外宇宙から持ち帰った不安定な物質コンゴヘリウムがもたらすビートに乗って、ひとびとがマリオネット(もしくはくくりつけられた死体)のように奇妙なダンスと、不快であり魅力的でもある歌をつづけている。
ゲビエットは一瞬燃えあがって滅びる徒花にすぎないが、補完機構はここから得た教訓をもとに大がかりな計画を実行する。それが人間の再発見だ。「アルファ・ラルファ大通り」ではその端緒が描かれる。古代文化と古代言語、さらには古代の災厄が復活して、不完全な世界のなかでひとびとは活力を取り戻す。しかし、その不完全はあくまで統計的にコントールされたものだ。ある疫病による死者が一定水準を超えると、その疫病は停止されるというふうに。いわば微温的なスリルだ。
語り手はフランス人となった男で、やはりフランス人となったばかりの昔なじみと出会う。彼女は「ヴィルジニーと呼んでちょうだい」といい、彼を「ポール」と呼ぶ。ふたりはひとめで恋に落ちるのだが、ヴィルジニーは自分たちの愛情が補完機構によってプログラムされたものではないかとうたがっている。その疑念をはらすために、補完機構の起源よりも古い予言機械アバ・ディンゴに頼ろうとする。天空にかかる斜路アルファ・ラルファ大通りをのぼって廃墟へむかうふたり。不思議な情景だ。
アバ・ディンゴがいかなるメカニズムかは不明だが、ここで重要なのは補完機構のコントロール下にないことだろう。「クラウン・タウンの死婦人」のレディ・パンク・アシャシュと同様だ。そして、レディの正確なシミュレーションとは別にジャンヌ・ダルク伝説が甦ったように、「アルファ・ラルファ大通り」でもいにしえの恋物語が再現される。アバ・ディンゴの神託を得たヴィルジニーは自分の感情が補完機構がプログラムしたものではないと確信し、歓喜のクライマックスを迎える。しかし、そのクライマックスは同時に、彼女があらかじめ物語を背負っていたことを示してしまう。
レディ・パンク・アシャシュはエレインに「わたしはわたしなのかしら、そうじゃないのかしら?」と問いかける。ヴィルジニーはポールに「ほんとうのわたしでありたいのよ」と言い募る。
登場人物がリアルな存在ではなく「物語のなかにいる」ことを前提とする小説はいくらでもあって、現代文学ではむしろ陳腐化している。しかし、スミスの作品はそういうものとは決定的に違う。彼の小説を読んでいると、いまこの現在を生きている自分も本物の感情をもちながら、何かの物語をなぞっているのではないかという不思議な気持ちが湧いてくる。遠く離れた未来の異様で美しいお伽噺のような小説なのに、読者がいる世界を染め変えていくようだ。
(牧眞司)
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