連邦崩壊20年 ソビエトの名残を歩く

2011年9月、ウズベキスタン共和国は独立20周年を迎えた。20年前、崩壊寸前のソビエト連邦(ソ連)を離脱して以来、“独裁国家”のレッテルをはられながらも、豊富な資源を片手に自立発展への道をひた走ってきたウズベキスタン。毎年10パーセントに迫る経済成長を続け、国民所得は飛躍的に増大した。

ソビエト連邦時代の共通語であるロシア語の通用度は下がり続け、街のそこかしこにあったレーニン像も、そのほとんど全てが撤去された。独立記念日には、幾万の人々が街頭へと繰り出し、国旗を振って自国の誕生日を祝う。若い世代の心に、“ソビエト”の記憶はない。
しかし街を歩くと、ふとした場所に、ソビエトの影を見ることがある。
独立20年。街に残るソビエトの名残を追った。

レーニン

かつては、街の顔として広場の中心に立っていたレーニン像。ソ連崩壊後、街のレーニン像は次々撤去され、肖像画も外された。それでも、“レーニンの顔”を目にすることは少なくない。

先日、何気なく入った大衆向け食堂。テーブルに置かれた紙ナプキン入れには、レーニンの横顔があしらわれていた。
「ソ連時代が懐かしいわけじゃないけどね、意外とウケがいいんだよ。現にあんたも興味を示しただろ」
食堂の主人は言った。今年は、独立20年の祝いの年。しかし、それと表裏の関係にある“ソ連崩壊20年”に、特別な感慨はないという。

観光地でもまた、レーニンをよく目にする。ウズベキスタン伝統の民芸品が売られる中に、必ずと言っていいほど、“ソ連グッズ”を扱う店がある。一番の売れ筋はレーニンの顔が描かれたバッジや徽章だという。
「レーニンには稼がせてもらってるよ」
土産屋のオジサンは、にやりと笑った。

自動車

フロントガラスがひび割れた赤い乗用車が、真っ黒な煙を噴きだし、車体をきしませながら通り過ぎていく。少し先では、路肩に止めた車を、ドライバーが屈みこむようにして修理している。
ラーダ、ヴォルガ、コンビ……。ウズベキスタンの路上は、古いソ連製の自動車であふれている。

しかし韓国・大宇自動車との合弁企業誕生以来、ウズベキスタンの車事情は、飛躍的に向上した。若い世代の間には、ソ連車をバカにするような風潮もあるという。
それでも、ソ連車はいまだ、この国で一定のシェアを持ち続けている。
「ラーダは30年は乗れるからね。簡単な修理なら、誰にでもできる。若い人は大宇の新車に乗りたがるけど、やっぱりソ連車が一番だよ」
こう話す男性の愛車は、12年前に中古で購入したという、ラーダ1200だ。

ほかにも、ソ連時代に生産された機械や工業製品を目にする機会は多い。国内の航空路線では、ツポレフやヤコブレフ、アントノフといったソ連製航空機が現役で活躍する。ソ連時代の制度や規則も、今なお色濃く残っている。

国家政策においては「ソ連からの脱却」が唱えられ、“ソ連時代”の記憶を持たぬ世代も増えている。その時代を知る大人たちも、概して、当時を積極的に語ろうとはしない。それでも、この国からソ連という超大国の影が消えるのは、遠い先の話かもしれない。

※この記事はガジェ通ウェブライターの「乃木 穣」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?
現在、中央アジア在住。
平日はユースアクティビティ講師として、週末はライターとして奮闘中。
砂漠の国の生活も早2年目。鷹揚な街の人々に助けられながら、何とか暮らしています。

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