その山は誰かがとっくに登っているよ

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その山は誰かがとっくに登っているよ

今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

その山は誰かがとっくに登っているよ

議論に関するエントリについたコメントの中に「その主張は誰かがとっくの昔に発見しているよ」というものがあった。誰かが既に考えたことを、自力で発見するのはしばしば滑稽であり、“車輪の再発明”と呼ばれる。無価値なものとされる。

しかしこれこそ思考=知識という勘違いの最たるものではなかろうか。誰かが既にそこにたどり着いていることではなく、自分が自力でそこにたどり着くことに意義がある。テストの問題で「この答えは誰かがとっくに発見しているよ」と言ってどうするのだ(笑)? 自分でその問題を解くことに価値がある。これまで誰かが登った山を一つも登っていない登山者が、誰も登ったことのない山を登れるのだろうか。

大事なのは解決方法を知っていることではなく、解決方法を生み出せる能力の方だ。魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教えろ、とはよく言うことだ。

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マンガとかで一子相伝の拳法の極意を書いた巻物を師匠が弟子にもったいぶってなかなか与えない描写がある。ケチケチせずにさっさと弟子に渡してあげればいいのに……。しかし大切なのは巻物に書かれている情報ではなく、その情報(拳法の極意)をゼロから編み出した創始者の思考の方なのだ。師匠から弟子に伝えるべきは情報ではなく、情報を生み出す力の方なのだ。

したがって免許皆伝で渡される巻物(に書かれている情報)はその時点で弟子にとっては無意味になっている。弟子が自力でその巻物に書かれた情報を編み出す能力を会得した時に、巻物は“象徴”として渡される。

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インターネットにおいて思考能力を評価せず、表面的な知識の量だけを尊ぶ傾向が強いのは、大半の人間にとっては“思考する”ことが不得意だからだろう。そもそも人間の脳が論理的思考に向かない。我々は無理して論理的な思考をしているのだ。だから学ばないとできない。人間にとって自然な思考とは感情的な思考であり、これは学ばなくても誰でもできる。

次に人間にとって得意なのは真似ることだ。あの時こうすると上手くいったから、今度もこうしよう、と。手本になるのは他人の行動だったり、過去の自分の行動だったりする。

そこから進んで過去に見聞きしたことのない問題解決方法を生み出すには、抽象化の能力が必要になる。人間の思考が他の動物と一線を画しているのはこの点であると同時に、人間がもっとも不得意とする思考の部分だ。人間の脳を持ってしても抽象的な思考は苦手なのだ。

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日本人はオリジナルな発想ができない。学校教育は暗記主体で考える力を養えていない。これらはよく言われることだし、他ならぬインターネットの住人もこうした批判を率先して行っている。考える力をつけることが大事なのだ、と。

お題目は結構なことなのだが、それがひとたび具体的な議論になると、そういう主張はどこかへ忘れ去られてしまい、知識自慢に終始してしまう。困ったものだ。本で車輪のことを知った人間よりは、何の情報も頼らず自力で車輪を発明した人間の方が、はるかに高く評価されて然るべきではないのか。

俺はしばしば、疑似科学(太陽は冷たいとか)のような妙な主張をするトンデモさんの方が、それを批判している人たちよりもはるかに頭を使っているのではないかと思う。結果的に彼らの主張はどこかに欠陥があり、結論は間違っているわけだが、“正解”を見て正しい知識を披露しているだけの疑似科学批判者の方が、馬鹿に見えることが少なくない。本質を理解せずに教科書の知識の受け売りをしているだけだから、応用力がなく、トンデモさんが繰り出す“応用問題”に上手く対処できない。

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自分の力で山にのぼることが大事。その過程でさまざまな経験をし、問題の解決能力がつく。教科書に書かれた完成品を受け売りするだけでは、それを生み出すための思考の技術・応用力は得られない。ちょっとアレンジされた変則的な問題に直面すると、とたんにお手上げになってしまう。

インターネットには情報があふれている。なまじ自分で考えるよりも、インターネットで検索したほうがとっくの昔に誰かがよい解決方法を見つけてくれている。次第に自分が愚かに見えてくる。自分の稚拙な思考力で考えてもどうせ間違っている。インターネットの情報を頼ったほうが確実だ、と。

しかしそういう無駄こそが社会にとって将来への投資なのだと思う。車輪を再発明させることを許容できる社会こそが、次の世代を担う人材を育てる。考えるために情報収集するならいいが、考えないために情報収集するのはダメだ。インターネットにある膨大な情報とまともに対峙(たいじ)すれば、それは小学生がオリンピック選手と試合をするようなもの。

そのあまりに圧倒的な実力の差を痛感し、差を埋める努力さえ虚しくなってしまうことだろう。小学生はまずは小学生同士と対戦し徐々に実力をつけていくべき。インターネット時代では何をインターネットから情報収集し、何を自力で考えるべきか、コントロールする術を身につけることが大事。マナーやリテラシーみたいなものよりも、このことの方がずっと大事なことだと思うのだけどね。

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まあそれでいい人はいいと思う。人類が全て自律的な思考力を身につけなければならない理由はない。むしろ歴史を振り返っても大半の人間は自分ではユニークな思考をせず、既に誰かが確立した方法(生き方)を機械的に繰り返し一生を終える。

むしろ社会の安定のためには大半の人間は凡庸であるべきなのかもしれない。誰も彼もが小学生のガキのように「俺こそ天才! 最強!」みたいに行動したら社会はぐちゃぐちゃになるだろう。高い山は高名で優秀な登山家が登ってくれる。わざわざ危険を犯して自分で登る必要はない。素人はハイキングコースを楽しんだほうがいい。

無謀な挑戦をして遭難しようものなら、死ぬだけでなく「なんて愚かな、そんなことをする必要がどこにある、おとなしくハイキングコースで満足していればいいものの」と末代まで罵られることだろう。まったく割りに合わない。

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考えみれば“車輪の再発明”というのはもともと情報共有の大切さを説いたものだった。たとえばオープンソースのコミュニティのほぼ同じレベルのプログラマーたちに対して、たいして違わない似たようなアプリやライブラリを繰り返し各自が独自に作るよりも、もっとその開発力を新しいものの開発に割り振るべきではないか、と。

ところがいつのまにか未熟な人間や井の中の蛙(かわず)を批判する言葉として使われることが多くなってしまったように思う。

“言いだしっぺの法則”というのもあった。「このプログラムは○○が使いにくい、もっとこうしたら良くなるのではないか」と言ったら、言ったその人間が改良しろ、と。そのためにソースはすべて公開されているのだ。

これはその人間に全てを押し付けるという意味ではなく、周囲はその人間をサポートしろ、という積極的な意味だった。これによりそれまでリーダーなどやったことのない人間が、半ば強制的にリーダーをやるはめになり、仲間の支援を受けて、その中には才能を開花させていった人たちがいる。もともとは成長の機会を与えるための言葉なのだ。

ところがこれもいつのまにか使われる場面が変質してしまったように思う。「文句があるなら自分で作れ、作れないなら文句を言うな」と。積極的な言葉がことごとく180度反転し、後ろ向きの言葉になってしまうのを見るのは悲しい。

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

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