景気と道徳と表現規制

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景気と道徳と表現規制

今回はessaさんのブログ『アンカテ』からご寄稿いただきました。

景気と道徳と表現規制
景気がいいとか悪いという言葉はもう日常使う普通の言葉になっているが、よく考えてみると不思議なことである。戦争で工場が爆撃されたわけでもなく、冷害や干魃(かんばつ)で田んぼがやられたわけでもないのに、20世紀初頭の大恐慌の時には、食うに困って生死の問題になる人がたくさんいた。モノがあるのに、それを人々の所へ届けられないという事態が起きて、それをどの国の政府もどうしようもなかったわけである。

つまり、社会というものは、自然災害と同じように、人間にはどうしようもなく人間の都合の悪いように動いてしまうことがある、社会は一定の範囲で自律的に動くということが確認されたわけだ。同時に、20世紀は、一定の範囲で政府には社会の自律性に対してできることがあるということも確認された。と言っても、次の記事にまとめられているような*1、ジンバブエのようなやり方ではだめだ。

*1:「 ジンバブエのインフレ率がすごすぎる」2008年7月18日『たつをの ChangeLog』
http://chalow.net/2008-07-18-1.html

モノがないからと言って、“市場に出回っている物資が不足するなら、物資を持つ者は絶対に市場に売らないといけない”法案を作ったりすると、余計モノはなくなる。

税金で公共事業をやるということは、国民が強制的に道路を買わされているようなものだ。ある意味では、政府が強制的に“不況にならないように、国民はみんな貯金をしないでモノを買わなくてはいけない”という政策を実施しているわけだが、やり方が微妙に違う。直接政府のお金で潤った企業から先は、市場にまかせている。最初に、税金を通して道路を買うところは強制力だが、その道路を売って儲(もう)かった企業から先は市場原理で動く。その企業の設備投資や、その企業の社員の飲み会は、市場に出るお金となって、その後は、全部、自律的な社会の原理でお金が回り出す。

“社会には政府にもどうしようもできない自律性と慣性がある”ということが再確認されるのと同時に、“社会がもともと持っている法則に沿った形で行うことで、政府は社会を望む方向に向けることができる”ということも発見された。20世紀の経済学では、逆方向を向いた相反する2つの知見が同時に発見、あるいは再確認された。この2つをセットにすれば偉大な知恵なのだが、片方を強調し過ぎるとおかしなことになる。特に、ここで新しく発見された、新しい政府の役割が強調され過ぎると“社会の法則と関係なく政府がその気になれば何でもできる”という、単純過ぎる錯覚をすることになる。

経済を構成する個々の取引は、商法や民法に沿って行なわれていて、その法律についてはもともと国家が決めたものなのだから、その法律を自由にいじくれる国家には、何でもできそうな気がするが、実際はそうではないのだ。ジンバブエのムガベ大統領のような独裁者でも思うように社会を回すことはできない。無理をすると社会は壊れてしまう。

ところで、なんで1929年に大恐慌が起きたかと言えば、一番単純に言って、産業革命によって経済の規模が大きくなって、国際取引が増えて、社会全体の仕組みが複雑化したからだろう。その頃、お金について起きたことが、今、情報や表現について起きようとしている。情報や表現の流通は、もう自律的に動きはじめて、人間にはどうしようもないレベルに達したと思うべきだ。つまり、情報流出の問題や、表現規制の問題は、景気対策と同じようにとらえるべきだと思う。

「不況から子どもたちを守るために、我が家では節約して貯金する」これは正しい。
「不況から子どもたちを守るために、政府に節約して貯金することを求める」これは間違っている。逆効果だ。
「情報流出の危険から会社を守るために、我が社では、社員のインターネット利用を制限する」これは正しい。
「情報流出の危険から会社を守るために、政府に国民のインターネット利用を制限することを求める」これは間違っている。逆効果だ。
「エロや暴力の氾濫から子どもたちを守るために、我が家では、子どもが見るものを制限する」これは正しい
「エロや暴力の氾濫から子どもたちを守るために、政府に子どもが見るものを制限することを求める」これは間違っている。逆効果だ。

社会の慣性のために、制限できないものを制限しようとすると、それはアングラ化して制御不能になる。それでは子どもは守れない。道徳というのは求めるべき結果である。誰もが道徳的に納得できる結果を生むものなら、手段は道徳的でなくてもよいと思うのが、分別ある大人だ。手段が道徳的であれば、結果について責任を持たないのは子どもだ。つまり、社会の大きさを体感できずに、自分の身の回りのことだけで社会のことを考えてしまうのは、子どもだ。

社会の大きさとは、経済について言えば、取引の相互関係やそれにともなう情報流通の複雑さ、相互依存性だと思う。表現の問題について言えば、人間の価値観の多様性だと思う。いや、価値観の多様性より論点の多様性と言った方がいいかもしれない。

問題となっているような作品について、「これは気持ち悪い」と思う人は多数派だろう。しかし、そういう作品をたくさん並べて“気持ち悪さ”の順番をつけようとすると、多数派の中でも順番は一致しない。多数決を取っても「AよりBが気持ち悪い」「BよりCが気持ち悪い」「CよりAが気持ち悪い」という結果になって、その中のどれか1つを排除すべきであると思ったら、自動的に全部排除ということになるはずだ。だって「それよりずっとこっちの方が悪質だ」という人が多数なんだから。アローの不可能性定理*2の逆をいけば、そういうことが数学的に証明できるような気がするが、人間の価値観は、そんなふうによじれているものだ。

*2:『Wilipedia』「アローの不可能性定理」参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/アローの不可能性定理

価値観の違う3人が互いを評価したから、Aは「BよりCが気持ち悪い」と言い、Bは「CよりAが気持ち悪い」と言い、Cは「AよりBが気持ち悪い」と言う。もっと大勢集めて全員の意見を尊重したら、“特に気持ち悪いから死刑”に全員が該当する。だって、あなたの知らない誰かが、「私が知る中で一番気持ち悪い人間であるA氏よりもっと気持ち悪いと言う人が多くいるB氏より、あなたはもっと気持ち悪いと言う人が多くいる」みたいな宣告をする。必ず、誰もが、間接的にそういう宣告を受ける。人間の価値観とはそういうものだ。

そんな『バトルロワイヤル』みたいな世界って、道徳的ですか?

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あらゆる意味でマジョリティに属する人間などというものは存在するのだろうか。性別や宗教やある切り口を与えればそこにマジョリティ – マイノリティという構図が現れるには違いないが、あらゆる切り口においてマジョリティたる人間とはそれこそマイノリティではないか(統計的根拠はない)*3。
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*3:「私的事件の垂れ流し」2005年2月1日『世界線航跡蔵』より引用
http://yugui.jp/articles/173#

そのとおりだと思う。だから、少数派にとって生きやすい社会を作ることが、多数にとっての利益になるのだ。だから表現規制には慎重であるべきで、少なくとも犯罪抑止効果の実効性をきちんと評価すべきだと思う。今は、目ざわりな価値観が横行し“生きやすさ”の不況であると言える。自分を守り子どもを守るためには、排除すべきものもたくさんあるう。しかし、これを安直に社会に延長していけば、“生きやすさ”が回復するどころか、息苦しさが大恐慌レベルになるだろう。

執筆: この記事はessaさんのブログ『アンカテ』からご寄稿いただきました。

文責: ガジェット通信

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