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続・産業とルーチンワーク(メカAG)

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今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

続・産業とルーチンワーク(メカAG)

では今後ルーチンワークされる産業はなんだろう。未来予測は当たらない。それでも予測するのは楽しいものだ。一つの可能性として人間同士のコミュニケーションをルーチンワーク化する産業というのはどうだろう。

情報化社会によって人々はこれまでとは比べ物にならないほど遠く離れた多くの人と瞬時にコミュニケーションできるようになった。反面その情報量の多さ、煩雑さ、人間関係の複雑さに溺れかけている。静的情報はGoogleなどの検索エンジンが整理してくれつつある。今後もこの方向は進化し続けるだろう。動的な情報、すなわちコミュニケーションはどうだろうか。

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コミュニケーションは自由度が大きすぎるのが、その煩雑さのひとつの理由だ。そのため人間は古来から「作法」という形式化でその煩雑さを避けようとしてきた。さまざまな作法、コミュニケーションのテンプレ化(定型化)。手紙の文面の形式、挨拶、結婚式や葬式などの各種セレモニー。これらは本来便利なように、社会の煩雑さをなくすために、生み出されてきたものだ。作法を踏襲してさえいれば、スムーズな人間関係の役割分担が可能。

しかし我々はそれを「煩わしいもの」として20世紀においてきてしまった。社会のカジュアル化、フリーフォーマット、形式にとらわれない自由、様式美の破壊、そういった価値観が20世紀末を支配していた。

横溝正史の金田一耕助シリーズなどで描かれる因習に囚われた閉鎖的な村社会。本陣殺人事件が描かれたのが1946年だから、リアルタイムでさえ時代背景が今から見れば古い。さらにその古さを強調するようなストーリー。それを誰かが「我々が煩わしいと感じて終戦直後の時代に置き去ってしまった古い習慣、しかしどこかその懐かしさに惹かれるのはなぜだろう」と解説していた。

この解説自体結構昔だと思う(1980年代ぐらいか)。当時すでにこの作品に描かれた世界は古かった。作中では1940年代ぐらいなのだから、1980年代からおよそ30~40年前。そしてそこから現在2014年だから30年経っている。「犬神家の一族」とか復員兵の話だし。

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1980年代頃Game Englishというのが話題になったように思う。当時のApple IIなどのアドベンチャーゲームは英語の単語を入力する形式だった。”look door”とかコマンドを入力していく。単純化された英語。

月刊ASCIIだったかLoginだったかで嘘かホントか「最近の若者の間でGame Englishが流行っている」という記事があったように思う。つまり人間同士もゲームで使うコマンドのように単純化された英語で会話するのが流行りだ、と。でも話題は単発だったし、ガセだったのだろうか(苦笑)。

とはいえ発想は面白いと思う。それから数十年後にできたMMORPGのFFXIでも海外のプレイヤーとの会話を支援するために定型句が導入された。本来の目的のためにどれだけ役に立ったかは疑問だが、日本人同士でもあえて定型句で会話するのが流行った。【お金】【くれませんか?】とか。

まあ定型句の組み合わせだと楽ではある。顔もなども同じ性質だろう。表現の自由度制約することによって、逆に表現しやすくなる。俳句とか和歌とかもそうかもしれない。

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何かの作者が結婚する前後のドタバタを書いた4コママンガがあった。最初は形式張った既存の結婚式は面倒だからやめようというのが2人の意向で、親戚とかにもその方向で説得を試みるのだが、説得していくうちに「どうしても結婚式をしないというなら、しかたない。でも○○への挨拶だけはきちんとしてくれ」という要求が相次ぎ、そういうのをいちいちこなすなら、結婚式でまとめてやったほうが簡単だという結論に落ち着いたという。

結婚式にせよ、葬式にせよ、年始回りにせよ、たしかに個別に自由形式で同じことをやろうとしたら、いろいろ大変だろうなと思う。それをほぼベストな形式に洗練させてパッケージ化したのが古来からのこうした儀式なのだろう。標準プロトコル!共通OS!(笑)

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話がそれたが、再びコミュニケーションの形式化の時代は来るだろう。爆発する情報量が求めるのだ。まず人間と機械の会話のフォーマット化。それを皮切りに人間同士の会話もフォーマット化。肉声の会話でもそうなるかは別として、オンラインでの会話はそうなっていくだろう。そしてそれを支援するネットサービスが勢力を伸ばしていくだろう。

自然言語の持つ冗長性や自由度は、文化の結晶とも言える素晴らしいものだが、高度すぎてコミュニケーションには邪魔なのだ…。

人間は人間同士の相互作用の一つ一つを単純化していき、さらに比重を外面から内面へと移すことで、爆発するコミュニケーション量に対応しようとするだろう。コミュニケーションの総量は増える。しかし一つ一つのコミュニケーションは単純化されていく。定型句・定型フォーマットで人間と機械、人間と人間は会話するようになる。

こうして考えると、1960年代から続いた、伝統的社会の破壊の世界的な流れは、まるでこれから到来する新たな形式社会の下準備だったとさえ思えていくる。第二次世界大戦はいろいろなものを変えた。植民地の多くは独立したし、世界の経済システムも変革を迫られた(ドルショックなど)。というよりも第二次世界大戦自体がそうした変革の一部だったのだろう。変化への胎動。

さらに遠い未来、再び脱形式化の時代が来るだろう。その時は再び人間性が重視される世界になるかもしれない。しかしその時の人間性というのは、現代の我々が考えるものとは変わったものになるように思う。個人ではなく集合的な…。

人間同士は密結合しすぎて、逆に個性は社会の表面からは見えなくなるだろう。内面には依然として個性があるかもしれないが、それは外からは見えないし、出そうともしない。いずれ内面からも消えていく。密結合社会…個性の消失…。「そんな世界嫌だ」と思うかもしれないが、1000年前の人々もきっと現代を「そんな世界嫌だ」と思うことだろう。

関連記事:
「産業とルーチンワーク」 2014年9月13日 『ガジェット通信』
http://getnews.jp/archives/665698

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2014年09月11日時点のものです。

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