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議論弱者の定義

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今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

議論弱者の定義

議論に強い人間と弱い人間の決定的な違いというのは、後者は主張の根拠や正当性を、もっぱら自分の感情に求める点。たとえばこれなんかいい例。

誹謗中傷は、相手への敬意を持たず、極端な上から目線、あるいは被害者意識に基づき、罵声を浴びせることです。それは批判ですらありません。

「ネットに蔓延る罵倒者たちよ、あなたたちを「武装解除」したい」 2013年02月23日 『ihayato.書店』
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/20769

判断材料がすべて主観的なもので占められている。敬意の有無をはじめこれらは、受け取り方によってどうとでもとれることだ。なので「気に入らない」という言葉に集約できてしまう。つまり感情にもとづいた言動ということになる。

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ここで大事なのは個々の発言がどうだということではなく、それらの因果関係をさかのぼった根拠の部分によって、感情か否かが決定されるということ。

馬鹿だ、アホだという発言が飛び交っていても、なぜ相手を馬鹿だと判断したのか?という根拠の部分にそれなりの論理性や客観性があれば、それは感情的な発言ではない(俺がそう考えているだけだけどね)。

おなじ「こいつは馬鹿だ」という発言でも、「常識的に考えられないようなミスをしたから」というのと、「なんか癇にさわるから」というのでは違う。前者は評価であり、後者は単なる感情的発言に過ぎない。

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もちろんどの程度の「非常識なミス」をしたら「馬鹿」と呼ぶかは、人それぞれだろう。だから客観的な評価ではない。でもそれはあまり重要な問題ではないのだ。

たとえば「彼は身長180センチだから背が高い」といった場合、180センチを背が高いと呼ぶかどうかはしょせんは主観だ。だからたいして意味がない。重要なのは180センチという事実の方。

だから議論い強い人間というのは、もっぱら180センチという部分について問題にする。それを背が高いと呼ぶか否かは、結局論者の主観なのだから、水掛け論になってしまうので、あまり争点にしない。

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ところが議論に弱い人間というのは、むしろ「背が高い」という部分を集中的に話題にしようとする。主観の部分だから話題にしようとすればいくらでもできる。延々と水掛け論を続けることができる。

ある意味、議論の題材としてはそういう主観部分の方が、やりやすいわけだ。自分が楽な道を選んでいるということに気づかない。そして「こんなに勝ってるのに、なんで褒めてくれないのー、みんな褒めてー」という。誰でも勝てるような状況で勝っても高い評価は得られない。

強者というのはむしろ主張しにくい部分をあえて主張しようとする傾向があるように思う。一見非常識に見える主張をあえてする。それがどうも弱者からは奇異に見えるらしい。なんでそんな不利な戦いをするのか?と。わざわざ第二次世界大戦のゲームでドイツ側を選択するようなものだ。

それが弱者と強者の違いのように思う。強者はアメリカ側を選べば勝つのは当たり前で、そんなことで勝っても自分がゲームをする意味がないと考えている。不利なドイツ側で勝ってこそ、勝利を実感できる。勝てば完璧だし、勝てないまでも予想以上に善戦すれば、人々はそれを評価する。

一方弱者もドイツ側を選ぶことがあるけれど、それは単になにも考えていないことが多い。そして当然の結果として負ける。

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弱者は「納得できません」とよく言う。一見論理的な主張のようだが、実はこれも感情なのだ。「納得いかない」というのは感情の結果であり、何ら論理性がない。

たとえば数学の証明で、式の変形ミスを指摘して、「この部分が納得いかない」というなら、それは論理的主張だ。あるいはこの式からこの式への変換手順の説明が不十分だから、もっと細かなステップに分解して説明してくれ、というのも、それなりに論理的な主張だと思う。

しかし弱者のいう「納得できない」は、そういうのとは違うんだよね。「結論が納得できない」という。どんなに直感に反する結果になろうと、それを導いた段取り(証明方法)に矛盾や考え落としがなければ、それは正しいと考えるのが論理的思考。

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よく算数の落ちこぼれは小学校高学年(5年生ぐらい?)から始まるという。この辺りが算数の概念が変わる境目だと思う。直感的な理解から、形式的な思考による理解に切り替わる。

「りんごが3つありました」的な算数なら、自分の身近のできごとで再現して「納得」できる。ところが分数の割り算とかは、もはや現実に似たものを探して納得することは難しくなる。中学になって方程式になると、もう純粋に決められた手順にしたがって式を変形していくだけだよね。変形の手順を間違えなければ、結果は正しいという考え方になる。

アインシュタインの相対性理論とかも、「時間の進む速さが変わる」という非常識な結論を、納得するのは難しい。似たものが日常生活の中に見つけられないからだ。「光は粒子と波の性質を併せ持っている」というのも、そんなもの身の回りにないよね。

だからその結論を導き出した手順に間違いがなければ、結論がいくら常識に反していても正しい、という思考を採用しないと、ある程度以上の複雑な思考はできない。

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よく勘違いしている人がいるけれど、こうした形式的な思考と、丸暗記は違う。「学校でこうやると教わったから」と意味も変わらずに教わったとおりに計算しているのと、形式的な手順や意味を理解した上で行うことはまったく別なこと。前者は意味が分からないから応用できない。後者はそこから自分で新たな形式的な手順を生み出すことができる。

教育問題で、丸暗記じゃなくて理解する学習とか言われるけれど、理解というのが直感だと勘違いしている人が多いように思う。繰り返しになるけれど直感(少なくとも日常生活に即した直感)に頼った理解は、小学校の段階で行き詰まる。

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弱者のいう「納得できない」というのは、結局はそれまでの「自分がもつ常識や価値観と違う」と言ってることが多い。常識や価値観というのは、ひとによって違うから、そんなのは当たりまえで、そういうものは議論の対象にならない。必要なら自分の持つ常識や価値観の方を変更しなければならないという考え方ができない。

ま、「おまえは馬鹿だ」と言われた場合、馬鹿と言われたことに固執して考えるか、その根拠の方を問題にするか。前者は弱者であり、後者は強者だと思う。

「こんなミスをするのは馬鹿だ」と言われた場合、「ミスをしたのは事実だが、馬鹿と罵倒するのはひどい」という論法を使うのが弱者であり、「ミスではない」という方向に持っていいこうとするのが強者。

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ミスを「ミスではない」と主張をするのは難しい。詭弁を駆使しなければならないかもしれない。でも一応論理的な主張を組み立てようとしているわけだ。反論もその論理の欠陥を指摘すれば可能になる。それが議論というものの本質。数学の証明問題と同じ。「1=0」となりました、さてどこが間違っているでしょう、と。「直感に反する」「納得できない」では、ダメなのだ。

一方「馬鹿というのはひどい」というのは、個人の感情だから、論理性を持たない。「とにかく自分はそう感じた」という以外、正当性を主張をする武器がないわけで、おのずと限界がある。というかそういう主張をした時点で「ああ、こいつはまともな議論ができない奴だな」と見切られる。

で、そういう扱いをすると、またまた「そんなぞんざいな態度をとるのはひどい」と(ry

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イケダハヤトの前述のエントリについていえば、大半が感情的な話なのは、誰でも読んですぐに分かるだろう。「そう思った」「そう感じた」のオンパレード。いや別にそういうことを表明するのは構わないのだけど、いくらそういう感情を並べても、反論にはならないわけで、相手の失笑を買うだけだ。

やっぱ相手に反撃したいなら「自分は~と感じた」ではなく、相手の言い分の根拠をつき崩していく方に力を注ぐべきだと思うのだよね。もちろんイケダハヤトも「どうして自分を馬鹿にするのか?」とは問いただしている。山本一郎の方はあまり親切にそれについて説明していない。

それがさらにイケダハヤトにとって不満なのだろうけど、あまり山本一郎に味方したくないんだけど、彼はヒントを出してると思うんだよね。いいかえれば「このヒントでわからないから、おまえは馬鹿なんだ」と言ってるに等しい(笑)。

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相手からそういう態度をとられれば不愉快なのはその通りだけど、だからといって「不愉快だ、不愉快だ、とっても不愉快だ」と、それだけに固執してしまうと、ますます相手の術中にハマることになる。

結局のところ感情による議論しかできない人間と見られると、こうやってWebでじゃれ合ってる間はいいけれど、もっと重要な局面、金や責任が絡む問題の時に、この人ちゃんと冷静に対処できるんだろうか?と思われてしまう。

イケダハヤトと山本一郎の違いは、どちらも感情的な文章はあるけれど、山本一郎の文章にはそうでない内容もしっかりあるのに、イケダハヤトの文章には感情的な内容しかないこと。感情的な文章というのはスパイスとして上手に使えば美味しい料理になるのだが、スパイスだけの料理では誰も食べない。見る人はそういう部分を見る。

全体的に食材よりも調味料の方が多いんだよね。イケダハヤトの文章は。砂糖ばっかだったり、胡椒だけの料理は料理と言わない。

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野放しにさせておけば、そのうち痛い目に遭い、自らの振る舞いを後悔することでしょう。そのくらいに考えておけば、争いは避けられます。

その理屈なら、

ネットによって高まった攻撃性を冷却していくこと、いいかえれば、人々を「武装解除」していくことは、大げさではなく人類が進むべき道だとぼくは確信しています。

武装解除なんてせずに、放っておけばそのうち自滅するはずだから、あなたが自分の貴重な時間を費やしてまでやる必要ないんじゃないの?

自分に直接振りかかる火の粉を払うのはともかく、人類のためにあなた個人が何かしようとする必要ないじゃん。争いは避けるべきなんだろう?理屈が穴だらけなんだよ。

他人を罵倒するというのは人類が生まれてからずっとそうなのだから、この先も変わるとは俺は思わないし、変わるべきでもないと俺は確信するけどね。

結局、彼は「なんで誹謗中傷がなくならないんだ」と疑問に思ってるようだけど、それは「本人の主観でしか判別できない」から。「誹謗中傷だ、いや違う」という水掛け論になるだけだから、水掛け論を避ける人たちは、あまり話題にせずに放置している。ところが彼はそういう場所ばっか狙うんだよね。一種の隙間商法というか、「お、こんなところにブルーオーシャンが!」と(笑)。誰も手を付けないのには理由があるのに。

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2013年02月26日時点のものです。

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記者:

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