藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#53 肩凝りについて

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「あなたの体は休み方を忘れています。」そう告げられたのは、15年ほど前。ある気功治療師さんからだった。

その頃の私と言えば、1日に三本も撮影をこなすような生活を続けていて、充実感はあったが、常に心身に疲労が溜まり、それを誤魔化すかのように、様々な刺激を自分に与え続けてはその高揚感で、日々を乗り切っていた。
「あなたの体は休み方を忘れています」と言った気功治療師さんは、まだ二十代の面影さえある若い男性で、実際に二十代の青年だったかもしれない。その日治療に同行した人の体には面白いように気が入り、触れなくても体が前後に動かされてしまうと本人が驚いていたのに対し、私の体といえば、ピクリとも反応しなかった。ブロックがとても強いとのことだった。
 もともと、吐き気がする程ひどかった肩凝りをどうにかしたいと駆け込んだ気功治療院だったが、肩凝りが解消できたかどうかは忘れてしまったのに、体が休み方を忘れていると告げられたことだけは、はっきりと覚えている。
 休み方を忘れているというのはいったいどういうことか、という疑問を超えて直ぐさま納得してしまった。世の中には様々な遺失物があるのだが、これはただ事ではないと内心冷や汗をかいた。
 疲れたら休む、眠くなったら眠る。こんな当たり前を体が見失っているということは、生き方がおかしいということに他ならない。過労と言ってしまえばそれまでなのだが、事はそんなに単純ではないと思われた。普通の過労ならば、十分な休息で疲労を抜けばいいだけだが、体がその方法を忘れているのだから、休みをとったところで疲労は抜けないことになる。もちろんある程度の、いわば表面的な疲れならば、薄皮を剥ぐように取れてしまうのだが、根っこにある宿便ならぬ宿疲労が抜けきれない。
 気功治療師の彼は、さらにこう告げた。常に臨戦態勢で肩に力が入っているのが常態化しています、と。常なる臨戦態勢?これは当時の自画像とは全く異なっていたので、一瞬半信半疑となった。自己評価では、中心に情熱を燃やし続けてはいるものの、それは必要時に噴出するマグマのようなもので、平常時は沈着冷静でリラックスしていると考えていたからだ。
 なのに、彼は臨戦態勢が常態化していると告げたのだから、俄かには信じ難かった。だが、私の地色は素直なので、ふうん、そうかもしれない、いや、そうなんだろう、とまた納得してしまった。
 気功治療師の彼が告げたことをまとめると、こうなる。私は、仕事の多忙によって、常に肩に力が入っている状態であり、それは休むべき時にさえ休めないという「休み方を忘れてしまった」心身を生じさせている、と。そしてこの状態を放っておけば、大病に繋がるとは目に見えていた。金属疲労によって鉄の棒さえ折れてしまうのに、この生身が休めないのなら、いつか大病に繋がるのは想像に難くない。

当時の私は三十代前半。仕事は楽しく充実していたが、これからは働き方と生き方を分けずに、しっかりと重ね合わせて、その像を活き活きとさせていこうと朧げながら決心した。仕事に打ち込み燃え尽きるような生き方は、自分には合わないということは分かっていた。仕事の充実とその果ての大病と日々の痛みは天秤にかけるまでもなかったのだ。数十万円もする高価なマッサージチェアと仕事現場との往復から自身を解き放つ時が来たのだと、あのタイミングで気づけたのは幸運だったと思う。よくある言い方を用いれば、節目というやつだ。やたらめったら頑張る季節は終わり、これからは手綱を緩めて、駆け足ではなく、並み足で自分の人生を御していく曲がり角に立ったのだった。

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 手を抜くではなく、手を緩める。そうしながらも成果は保つことができるイメージはあった。何事も大切なのはインパクトの瞬間の心身の使い方であって、強張りからは力がうまく伝えられず、無駄な緊張となるだけだ。こういうことは、経験してきた様々なスポーツから得ていた実感でもあったので、非効率と言い換えてもいいだろう。まあ、若かったということだ。
 こういう経緯の後、私のテーマは、肩の力を抜いて暮らす、ということに定まった。走り続け、立ち止まり、自分の状態を確認し、今後へと意識を新たにする。その上での、脱力指向であったのだが、実際は数学の公式のようにはいかない。肩の力を抜こうとしても、依然として肩凝りはひどく、仕事のペースも少しは緩くなったとはいえ、相変わらずの多忙であった。いつも首を回したり、片手で揉んだりしても、治し難かった。方向は分かっているのにそこへと行き着けないもどかしさの中にいた。ネガティブなイメージから回避しようとするのは、行動のきっかけとして消極的で灰色がかってしまうので、逃げるというよりも、健康へ、明るい未来へと向かうイメージ付けをしていたが、それでも事はうまく運ばなかった。
 依頼される仕事はどれもが興味深く、取捨選択が難しい。何事にも楽しい部分を見つけて取り組むという基本姿勢が災いしてか、依頼を断れないということも、要因となっていた。これは贅沢な悩みともいえ、こういう状態に至ることをある種の目的としてきたわけなのに、一旦をそこに立ってしまうと、健康問題が全く思いがけない方向から顔を出してきたのだった。
 きっとこういうことは誰にでもある程度の年齢に達すれば生じてくるのだろう。ようやくやりたいことが出来てきた時に、それを阻むように立ち上がってくる諸問題というのがある。ある人にはそれが人間関係であったりするだろう。私の場合は健康問題である。幸い大病する可能性を示唆されただけで、そのまま突き進むこともできただろうし、それを選択する人、せざるを得ない人もいるだろう。たとえ来世があるとしても、今生はこの一度きりである。それをどう過ごすかは個人の了見にかかっている。

結局私がとった行動は、東京を離れて葉山へと住所を移すことであった。2005年のことである。今から13年前のことで、今でこそ郊外に住むというスタイルは一般化されたが、当時はある種の一線から遠ざかるようなイメージを周囲には持たれたようだ。ちょっとした「お先に上がります」な感じがあった。現在の状況とはちょっと違うのかもしれないが。
 しかしこれは仕事量ということでは、功を奏したようで、変わらず忙しかったとはいえ依頼数は落ち着き、は1日3本という撮影はなくなった。事務所は依然として神宮前三丁目にあり、そこへと日々葉山から往復していたのだが、ほどなくしてビルの老朽化と耐震設計の新基準への不適合という理由から立ち退き勧告があったのをきっかけに、事務所も葉山へと移した。正確には横須賀市秋谷という場所だったのだが、そこは秋谷海岸から数本道を入っただけの一軒家で、ビーチまで30秒という場所であった。風呂場には外から直接入れるようにドアが付いていて、夏にはひと泳ぎしてから作業に当たることもあった。常時2、3人いたアシスタントを1人だけに減らし、なんとなく身軽になった気がした。

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 環境の変化というのは、殊の外大きかった。私は寝床の違いという言葉で、環境の変化を周囲に伝えていた。それは、どこに巣を作るか、どこの洞窟を住処とするか、という野生動物の生活からの引用概念であり、生活するにふさわしい場所の重要性を語ったものだった。ある鳥は大木のてっぺんに巣を作るだろうし、ある動物は川の中洲で子育てをする、といったように、人間にもそれぞれの性格や仕事などから規定される、ふさわしい場所があると考えていた。そしてそれは、いずれ故郷を離れる時が来るように、変化も内包している概念として捉えていた。

 寝床とは、彼ら野生動物にとって、最も安心できる安全な場所である。だとしたら、人間にとって、私にとって最も休める場所は何処かと考えた場合、なんとなく今の場所ではない気がしたのだ。
 たまたま手にした住宅情報誌に載っていた中古住宅の写真を見て何かを感じ、不動産屋さんに時を置かずに現物を見せてもらい、ほぼ即決でその家に住むことにした。70年代に造られたその家は、木枠の窓を持つ船を模した独特な外見を持ち、私はそこで寝食を費やしたいと望んでしまったのだった。そして、その家はたまたま葉山にあった。なので、「葉山に住む」はついでに付いてきたようなものであった。最初に家ありきだったのだ。
 都内などで部屋を探しても、結局最後は直感で決めることが多いと思う。その判断となんら変わりない方法で、私は葉山に住むことになっただけで、強い決心がそうさせたのではなかった。が、結果、葉山に巣を作ったことは健康には良かった。御用邸を海岸沿いに抱く葉山町は、住所で書けば、三浦郡葉山町であるが、ただの田舎ではなく、北の軽井沢、南の葉山といった感じに洗練された部分も多かった。最初こそ第三京浜を使って車で通っていたが、そのうちに撮影の無い日は横須賀線で都内を往復するようになった。片道約1時間の電車は、格好の読書時間となり、充実した1日を都内で終えたあとは、ささやかなご褒美としてグリーン車でビールを飲みながら帰途につくのだった。逗子駅からはバスに乗って丘の上にある我が家まで、さらに揺られ、都会での仕事で熱を持った心身を帰宅時間がクールダウンさせてくれた。そういった葉山を寝床にした暮らしが、いつしか肩凝りを解消させてくれた。

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おそらく、肩凝りを解消すべく何かしらの事はしていたはずだが、今となっては一切記憶に残っていない。なので、いつの間にか肩凝りが無くなっていたとしか言えないのだが、生活が一変するほどの変化が解消には必要だったのだろう。それは一つの症状に過ぎないのだが、葉山以前の仕事を含めた生活が、肩凝りに集約されていたのだとしたら、それを解消するには、元々の生活を変えるしかなかったとも言えるだろう。何かしらの対処的な手段で一時的に良化できたかもしれないが、根本的な治療には至らなかったと想像する。ある種の大きなリセットが私のケースでは必要だったと思う。
 思えば、私は幼少の頃より、学校の黒板や連絡帳や教師の口から、頑張ることを勧められ続けてきたようだ。それは大方の人がそうであるように。気を張って、継続することを求められ、常に結果を評価され、順位をつけられ、競争するのが当たり前の世界で生きてきた。それが必ずしも悪いことだとは思わないが、私がそうであったように、力を抜くこと、リラックスして楽しむこと、柔らかく周囲を眺めることが、置きざりにされ、それが不得意になってしまったようだ。
 葉山に暮らした後に、今は沖縄に暮らしているのだが、そこで習い始めた合気道の道場で、力まないようにと何度も指摘され、その度に自覚のなかったことに驚き、脱力して集中することの難しさを知るのだった。
 肩の力を抜く。力を入れるのではなく、ゼロでいることがどんなに難しいことか、これは経験してみる価値はあると思う。静かに気を充実させてただ在ることがどんなに難しく、そしてそれが出来た時の美しさは、他に比するものがないような安らぎを与えてくれる。ゼロと記せば、もともとの起点を想像するかもしれない。だが、ゼロは戻ろうとして帰し道をいくら辿っても到着できる場所ではなく、むしろ未来へと向かって経験を積みつつ脱力する術を得てようやく辿り着ける場所だと思う。ゼロは過去の誕生時のあるのではなく、未来に輝く場所としてある。
 力んで強張ると、そこでは気や体液や血液の流れが悪くなり、肩であれば肩凝りとして現れる。不必要に心身をアップダウンさせずに穏やかに微笑みながら寛容さを持って滞りなく暮らすこと。それを心がけながら今を満ち足りて生きること。気が充実しながらも脱力できている状態こそが常態となれたらと私は願っている。

 まずは、肩の凝らない日常を過ごす。一時的に凌ぐならマッサージなど外的刺激による方法も有効だが、根本的に離したいなら、自分をリニューアルする必要がある。生活のサイクル、食べ物、睡眠の質、人付き合い、仕事の仕方、などなど。思い当たるところからゆったりと離陸するのがいいだろう。そのような意識を経た上で、深呼吸と瞑想を実践できたら、肩凝りはいつの間にか消えているはずだ。そして、変わることを楽しんでほしい。自分自身を変えていくプロセスは、どんな小説や映画やその他の表現物でも成し得ないオリジナリティに富み、そしてリアルだ。変わることを放棄した時に、人としての凝りが始まる。顔や心の表情豊かな老人は常に内外の変化を楽しめている種類の人で、そういう凝らない人に私はなりたい。

※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#54」は2018年5月15日(火)アップ予定。
 

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