「シンプルに端的に」の逆を行く 滝口悠生・新刊『茄子の輝き』を語る(後編)

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「小説」や「文学」に対する一般的なイメージとして多いのは「難しくて読みにくい」「よくわからない」といったものだろう。それだけに、「どうせ最後まで読めないから」と敬遠されてしまうことが起こり得る。

しかし、「よくわからないが、抜群におもしろい」「読みにくいが、なぜか読めてしまう」類の小説は、確実に存在する。

滝口悠生氏の小説はその代表格だろう。スピード感のあるストーリー展開で、読者を物語に引っ張り込んでいく、というタイプではない。語り口はゆっくりと、迂回したり、寄り道したり、立ち止まって佇んだりのそぞろ歩き。もどかしさを感じるかと思いきや、案外それが心地よかったりする。

そんな世にも不思議な「滝口ワールド」。ご本人はどう考え、どう創りあげているのだろうか。今回はインタビュー後編をお届けする。(インタビュー・記事/山田洋介)

表紙

■流れに逆らう人のよすがになればいい

――滝口さんの新刊『茄子の輝き』は芥川賞受賞後、はじめての著作となります。大きな賞を受賞したことで周囲の期待も大きくなりますし、やりにくい部分があったのではないですか?

滝口:単純に仕事の依頼が増えて大変なことはありましたけど、書くこと自体がやりにくくなったということはないです。そのあたりは人によるでしょうね。

――現在は専業作家として活動されている滝口さんですが、普段どのように時間を使われていますか?

滝口:そんなに安定していないのですが、だいたい朝7時くらいに起きて、食事を作って食べたり、花に水をやったりしてから、10時くらいに仕事を始めています。

そこから長引けば夜までやっていますが、途中で買い物に行ったり、用事があったら出かけたりしますから、実際に作業をしているのは6時間くらいで、実際に仕事が進んでいるのはさらにその半分くらいじゃないかと思います。本を読む時間も含まれているので。

それで早ければ夜8時くらいに切り上げて、お酒を飲んだりして、12時か1時くらいに寝る感じですかね。でもそれは理想で、実際はそんな日全然ないな(笑)。

朝起きる時間と寝る時間が決まっていて、その中で忙しさとか用事のあるなしに合わせて2時間くらい仕事をしているというのが一番実態に近いかもしれません。

――現役作家の中で、刺激を受ける方はいますか?

滝口:やはり、同世代の人ですね。上田岳弘さんですとか、松波太郎さん、小山田浩子さんは、作風が違っても気になります。あとは、キャリアとしてはだいぶ先輩ですが、青木淳悟さんの小説には、刺激というより毎回驚かされています。すごいなと思いますね。

――最近読んでおもしろかった本についてもお聞きしたいです。

滝口:先月と今月で、町田康さんの本をまとめて読む機会があったのですが、初めて読んだものも読み返したものも含めてやっぱりおもしろくて、その余韻に浸っています。新刊の『ホサナ』も読みましたし、『東京飄然』『とつぼ超然』『この世のメドレー』のシリーズも読みました。

――町田さんの小説の語り口を考えるに、ご自身の小説と似た匂いを感じることもあるのではないかと思ったのですが、いかがですか?

滝口:広く言えば似たところもあるのかもしれませんが、やはり町田さんの小説は特殊だと思いますよ。文章自体が他に類を見ないですし。みなさんそれぞれに独特な小説を書いていますけど、その中でも町田さんの位置づけは難しいと思います。

――滝口さんの小説にしても、一般的な「小説」のイメージとは少し違った作品を書かれています。そこでお聞きしたいのですが、滝口さんの小説になじむために、読んでおくといい本などがありましたら教えていただきたいです。

表紙

滝口:僕の小説が読みにくいと感じるのであれば、おそらくそれは素材ではなく書き方の部分でしょうね。『死んでいない者』(芥川賞受賞作)の時がそうだったのですが、本を普段全然読まないけどするっと読めたという人もいれば、普段本をかなり読むのに途中でつまずいてしまった人もいました。本を読む人であるがゆえに、テクニカルな部分につまずいてしまったケースがあったようです。

――滝口さんの小説の大きな特徴である「語りの散漫さ」は、人によっては合わないものかもしれません。

滝口:それはあるかもしれませんね。「要するにどうなるんだ、この話は」という(笑)。

となると、何かの小説を読むよりも、落語や講談を聴いてもらう方がいいのかもしれません。僕自身、そういうもののナレーションの自由さはすごく参考になると思っています。

小説を読むときに、書き方やテクニックのところでひっかかってしまうのは、言葉の流れ以外のところで考えることが多くなってしまうというのが一つの理由としてあると思います。たとえば登場人物を頭の中で整理しようとしたり、小説の外に理解するための場を作ってしまう。

でも、落語や講談は、演者が一人で演じる会話に身を任せているだけで、話の構図を整理しなくても受容できたりします。自分の小説もそのくらいの感じで読んで大丈夫ですよ、というのは言いたいですね。

――なるほど。

滝口:精読することももちろん大事なんですが、その前にゆるっと読もうよ、と。そういうゆるい構えが核心を突く場合もある。あとは、目的地を決めずに散歩してみたりするのもいいかもしれません。「散歩なんてする意味がわからない」という人もいて、そういう人と僕はけんかになりがちなのですが(笑)、目的なく歩いてみたり、結論を急がずに何かやってみるということがあってもいい。

その発想自体がない人もいて、そういう人に自分の小説が何かの発見を提供できたらいいなと思っています。

――「シンプルに、端的に」というのが時代の流れですが、逆行していますね。

滝口:そこはもう、逆行します。流れとして簡単な方向に向かっているのはわかりますが、それに逆行しているものが世の中にあるということに意味がある。

いつの時代も逆行したくなる人は必ずいるもので、本や小説がそういう人のよすがになればいいですね。(インタビュー・記事/山田洋介)

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