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ヘレン・マクロイ『ささやく真実』の忘れがたい登場人物

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 ヘレン・マクロイ翻訳のペースが一段と加速している。

 2015年9月に『あなたは誰?』、本年4月に『二人のウィリング』(ともにちくま文庫)と立て続けに本が出て、さらにこの8月には『ささやく真実』が刊行された。1941年発表のマクロイにとっては第三長篇にあたる作品である。

 かつてドロシイ・L・セイヤーズやアントニー・バークリーが再評価されたときのことを思い出す。浅羽莢子渾身の訳はセイヤーズというイギリス推理文壇の保守本流ともいえる作家の日本における知名度を一気に押し上げた。また、藤原義也の企画した世界探偵小説全集での翻訳紹介が火をつけたバークリー人気は、古典的探偵小説の再評価といううねりを起こすことになった。それらに比べれば、マクロイが起こしている波自体は小さい。セイヤーズのように探偵小説の一類型を完成させた作家ではなく、またバークリーのように批評性を前面に押し出すような作風でもないからだ。

 マクロイはマクロイという枠の中で閉じている作家である。マクロイに影響を与えたであろう同業者というのはあまり見当たらず、自身の建造物を精緻にすることにひたすら精力を注ぎ続けた作家という印象がある。存在として最も近い作家は、14歳下のマーガレット・ミラーだろうか。二人とも唯一無二、他の誰でも与えてもらえない満足が欲しくなったときに読む作家である。

 とはいえ、『ささやく真実』はミステリーにそれほどなじみのない読者にも読みやすい作品である。ずば抜けた美貌の持ち主でありながら性格はねじ曲がっており、周囲の人間を困惑させることを何よりの楽しみとする女性、クローディア・ベスーンが主人公である。彼女が自宅で催したパーティーにも、一つの企みがあった。ベスーンは友人の研究所から、スコポラミンを改良した強力な自白効果のある薬物を持ち出していた。それを出席者にこっそり服用させたのだ。当然ながらパーティーは一大暴露大会となる。一時的に彼女の所有するコテージに滞在している精神科医のベイジル・ウィリング博士は、この晩の催しに招待され、断っていた。翌日の早暁、異変を感じて邸に足を踏み入れたウィリングは、首を絞められて瀕死の状態のベスーンを発見する。

 あまりにも多くの人に憎まれて殺人の容疑者には事欠かない被害者、腹に一物あるために真実を口にしない証人たちという完璧な顔ぶれの登場人物であり、そこに状況証拠の吟味という関心が加わる。探偵であるウィリング自身が第一発見者となったため、犯行直後の状況が直接的に語られるのである。ウィリングはそこでいくつかの問題提起をするのだが、もちろんそれは犯人指摘のためには見逃せない手がかりだ。物証の意味がいちいち解明されて推理の構成部品となっていく快感は、既訳作品の『家蠅とカナリア』(創元推理文庫)などを思い起こさせる。この着実さの上に、作者独自の奇想が積み重ねられていくのだ。「誰もが真実を語ってしまう自白剤」というギミックが、本書独自の仕掛けである。『二人のウィリング』に登場するセラピー集団、『暗い鏡の中に』における寄宿制学校の怪異など、マクロイ作品にはこうした忘れ難いギミックが頻出する。

 作中では「真実を語る」という行為が重要なモチーフとして扱われ、場面ごとに強い印象を残していく。そもそもクローディア・ベスーンという女性が謎の多い存在であり、彼女にとっての真実を語る行為とは何であったか、というのが小説の影の主題となっているのだ。ウィリングの追及によって次第に明らかになっていくベスーン像には実在感があり、現代に移してもそのまま成立しそうだ。周囲の人間と協調することができず、ひたすら閉じていくしかない孤独な心性を、マクロイは見事に活写する。パーティーにおいて、自白剤入りとは明かさずにカクテルをふるまった後で、ベスーンは言うのである。

「〔……〕真実はつかの間のものであるべきよ。太陽もじかに見られるのは一瞬でしょう? 長く見つめていると、眼球から血の涙が出るんですってね」

 そして彼女はカクテルを「真実の瞬間」と名付ける。だがそれは本来、闘牛士が牛を殺す瞬間を指す決まり文句のことだった。血を見ずには、そして死を覗かずにはいられないほどに刹那の快感に執着する心が物語の中心にある。読後いつまでも記憶に残る登場人物だ。

(杉江松恋)

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