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「大切な人の死」によって生じる心の反応とは

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 生きていればいつかは必ず直面するのがパートナーや家族との死別です。
 しかし、私たちは「死が間近に迫った家族とどう接するか」「家族が亡くなった時に何が起きるか」といった「大切な人の看取り方」について考えることはほとんどありませんし、こういったことは誰も教えてくれません。これでは、いざという時に動揺するばかりで、何をしていいのかわからないということになってしまいます。
 
 「自分が死んだ時のことを元気なうちから家族と話し合っておくべき」と語るのは『家族が死ぬまでにするべきこと』(彩流社/刊)の著者、斉藤弘子さん。今回は斉藤さんにお話を伺い、パートナーと母を看取ったご自身の経験から、大切な人の死とどう向き合うかについて教えていただきました。
 
――『家族が死ぬまでにするべきこと』は、いつかは誰もが経験する「家族の死」について真剣に考えさせられる本でした。たとえば自分の家族が病気で「余命宣告」をされた時、近くにいる人間としてどんなことができるのでしょうか。

斉藤:ひと言でいうなら「本人の思いに寄り添うこと」です。
たとえば「どこで、どのように死を迎えたいのか」というところですね。癌の場合はホスピスに入れば症状をある程度コントロールできるという意味で環境がいいですし、行動の自由度も高いと言えます。そういう場がいいのか、それとも死ぬ時は自宅がいいのか。迷惑をかけるから病院で死にたいという人もいらっしゃいますし。
それと、病気との向き合い方も人それぞれです。あくまで病気と闘って生き抜きたい人もいれば、闘いたくない人、たとえば癌なら抗がん剤治療をしたくないという人もいる。友達に会いたいと思う人もいれば、最期の姿を誰にも見せたくない人もいます。
それぞれの選択肢について本人がどう考えているのかという思いを大切にしていただきたいです。人生の残り時間が限られているなかで、いかに「いのちの質」を高めるケアができるかを考えていただきたいですね。

――今おっしゃったような「本人の気持ちに寄り添う」ということは、本人も家族も余命を把握している状態が前提になるのでしょうか。

斉藤:今は医療的には「余命」という言葉を用いるよりは「予後」という言葉が使われたりしています。医師からあと一年ほどのいのちでしょうと言われた方が三年も生き延びたり……人のいのちは、医師にもわからない、誰もわからない神秘といえるでしょう。それゆえ、医師は「あとどれくらい生きる」ということは告知しなくなっています。本当に最期が近づいた時に、あと一カ月くらいだと思います、というように家族に告知することが多いようです。ただ、お迎えがそろそろ近づいたということは、本人はどこかで感じとっているのかもしれません。

――ほとんどの人は、近しい人の死が間近に迫っている状況で気持ちの整理がつかないと思います。斉藤さんは、パートナーやお母様の死が近いとわかった時、そして死別された後、どのようにご自身の気持ちを整理されましたか?

斉藤:私は長く死生学を学んでいたのですが、それによると「死」には「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」があります。
ここで大事なのは「一人称の死」と「二人称の死」です。「一人称の死」というのは、いのちと向き合っている人、死にゆく人の立場からとらえる死で、「残された時を、どう思い残しなく過ごすか」ということが課題になります。
「二人称の死」はその家族や親しい人の立場から考える死ですね。自分の大切な人の限られた時間をどう共に過ごすのか。そして死別の悲しみと向き合ってどう悲しみを乗り越えてゆくのか、というのが「二人称の死」の課題です。
「一人称の死」の場合、たとえば自分が「治癒が望めないがんの宣告」をされたら、まず「そんなの嘘だ」という「否認」の感情を抱きます。そして、第二の段階として「こんなに真面目に生きてきた自分がなぜ死ななければならないのか」と怒りが湧いてくる。第三段階目に「神様、どうか嘘だと言ってください。何でもしますから」と取引しようとします。でも、そんなことをしても人生は変わりませんから、次には抑うつになり、最後に死を受容する。これは、「死にゆくものの心理プロセス・五段階説」です。
最後の「受容する」ということは、ひとつには「諦める」という意味が含まれているでしょう。「人間は誰でも死ななければならないのだ。仕方ないのだ」という悟りともいえるものです。もう一つ、「明らめる」という意味があると私は思っています。「自分が死ななければならない」という「変えることのできない事実」と「残された時間をどう過ごすか」という「自分次第で変えることのできること」が明らかになるということです。どのように死を受け止めて、限られた時をいかに過ごすか……その人らしい最期を迎えることができるのです。このようなプロセスを経て死を受容した時、人間は素晴らしい成長を遂げるものです。それまで理不尽に家族に当たり散らしていた人が、感謝の気持ちを伝えるようになる。そうやって最期を迎えます。
そういう一連の流れを「二人称」である家族も共有します。大切な人が苦しんでいたら家族も苦悩し、痛みを感じていたら家族も痛みを共有します。そうして本人と一緒に死を受け入れていきます。

――死別した後についてはいかがですか?

斉藤:死別した後には、大切な人を喪った悲嘆の感情(グリーフ)が訪れます。そのグリーフは、時と共に徐々に変化していきます。それを「悲嘆のプロセス」といい、さまざまな研究者が段階モデルを提唱しています。
研究者のモデルによって異なりますが、おおむね、最初は家族が亡くなったショックや驚愕があり、その後、怒りや抑うつ、「あのときこうしていれば…」と自分を責める罪責感にも苛まれます。人によっては「あの人が死んだなんて嘘だ」という幻想を抱くこともあって、亡くなった家族の食事の準備をしてしまったりします。こういうプロセスを経て、死別の悲しみが徐々に変わっていくなかで、新しい生き方を模索していくのです。
こういう知識を私は死生学を学ぶことによって理解していたので、こうしたプロセスの中での感情の変化に戸惑うことは少なかったように思います。もちろん、悲しくて泣いたりはするのですが、同時に「これは誰もが通る悲嘆のプロセスなのだから、この感情は当然なんだ」ということもわかっているわけですから、気持ちの整理はしやすかった。このプロセスについては、知らないと「自分は異常だ」とか「自分はダメな人間だ」と思い込んでしまうことがあるので、ぜひ知っておいていただきたいと思います。
特に今は核家族化が進んでいて、悲しい気持ちを一人で抱え込む人が増えています。自分の率直な気持ちを第三者に話したり、また誰かが悲しんでいる時は、相手に寄り添って話を十分に聴くことによって、気持ちの整理の助けになります。

――パートナーの方を看取るにあたって、斉藤さんが重視していたこと、大事にしていたことはどんなことでしたか。

斉藤:先ほどの答えと重複するのですが、残された「いのちの質」をできるだけ高めてあげたい、ということですね。どんな風に過ごしたいのかという本人の希望をなるべく大切にしてあげたい、そして目を閉じていたとしても語りかける、身体が楽になるようにマッサージをしたりスキンシップをすることを繰り返しました。
さらに、死が間近なことと知った時は、パートナーらしい弔いをしてあげたいという気持ちになりました。形式を重んじた葬儀ではなくて、こよなく愛した軽井沢をイメージした祭壇、好きだったワインだとか愛用していた帽子やスカーフを飾って、本人らしい旅立ちになるようにと。

――そういったことができるのは普段からよくコミュニケーションを取られていたからでしょうね。

斉藤:一緒に暮らしていれば相手の好みや大事にしているものはわかりますからね。今、葬儀の形も多様化していますし、必ずしも葬儀をする必要もなくて直葬という選択肢もあります。そのあたりのことは生きているうちに話しておくべきだと思います。

――個人的なお話で恐縮ですが、私は長男で親からは「友達のリストを作っておくから、自分が死んだら彼らを呼んで盛大に飲み会を開いてほしい」と言われています。できるだけ希望はかなえてあげたいのですが、あまり弔いらしくないことをやろうとすると親戚筋から反対がありそうです。

斉藤:そういう希望は本人に文章にして残してもらうべきです。
「私が死んだ時はこういう形で見送ってほしい」ということを書いて、記名・捺印してもらえば、何かあった時に親族と争いになるという不安もなくなり「本人が望んでいるならそうしてあげよう」ということになることでしょう。
(後編につづく)


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