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世界が〈涯て〉に飲まれるとき、ぼくの記憶がはじまるとき

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 第三回ハヤカワSFコンテスト佳作受賞作。みずみずしく、切なく、そして普遍的な小説だ。『世界の涯ての夏』は、「世界」と「記憶」のもっとも根源的なところへ読者を導いていく。

 この作品はまず、世界についての小説だ。

 複数の視点が次々に交代するが、そのなかに「世界」が主語・主体となる語りがある。擬人化ではない。世界そのものが感じ、考え、語っている。

  世界はヒトについて知っていた。
 世界がものを考えるとき、そのほとんどの部分を担当するのが、ヒトという生き物だった。世界は、おおむねヒトでできていた。
 だから世界は、自分を、ほぼヒトであるとみなすこともできた。ただ、それはあまり正確ではなかった。ヒトがものを考えるときは、脳という器官を使った。けれども、ヒトは脳ではない。それと同じように、世界はヒトではなかった。 

 世界が考えを持ちはじめたのはヒトの出現によるのだろうか? それとも、そもそものはじまりから考えていたのだろうか? しかし、「そもそものはじまり」とはいったい何だろう? 世界にとって時間は意味を持ちうるか? ヒトが自明と見なしている過去から未来へ一方向へ流れる時間はじつはかりそめのもので、世界が考えている「いま」を起点として時間は広がっているのかもしれない。そんな問いが、幾度となく、静かに立ちあがる。

 あるいは、世界が考えるようになった契機は〈涯て〉かもしれない。

〈涯て〉は、世界に突然にあらわれた球状領域である。ほとんど無に等しいサイズから、ときに急激に、ときに緩慢に拡大していった。球の半分は地上に、半分は地下にあり、いくつかの国にまたがって世界を侵食している。〈涯て〉に飲まれたものは取り戻すことはできない。〈涯て〉によって、世界は終わりを迎えようとしている。

 しかし、ヒトは〈涯て〉の拡大速度を遅らせる手だてを発見した。世界を飲みこむとき、〈涯て〉は揺らぐ。揺らぎが生じるのは、世界に流れている時間を〈涯て〉の時間へ置き換えるからだ。〈涯て〉の内部では時間に方向などなく、喩えて言えば、確率と分布に基づいた時間がある。〈涯て〉が世界との界面でおこなっている時間の変換処理を、充分に高い精度で推測し、その逆処理を施せば—-ひとつの波形に逆の波形をぶつけて中和するように—-〈涯て〉の浸食をとどめることができる。

 逆波形の算出のためにヒトの脳が利用される。時間概念を扱うには計算機を用いるよりも、たくさんのヒトの脳をつないで分散処理するほうが効果的だったのだ。

 この作品はまた、記憶についての小説だ。

 タキタは〈涯て〉の浸食速度を遅らせる推測計算をおこなうため、脳内に極小デバイス「祈素」を埋めこんだ最初の世代にあたる。彼は相性が合ったのか老齢になるまでその役割をつづけ、いまなお現役だ。この仕事に特別な努力はいらない。ブースのなかで一定時間、過去の思い出を想起するだけだ。その状態の脳から抽出された波形が、〈涯て〉の浸食を遅らせるために用いられる。

 思い出のなかでタキタは小学六年生の「ぼく」になっている。疎開先の離島にいた夏。そのときは知らなかったのだが、疎開していたのは、祈素ネットワークの実験体として選ばれた子どもたちだった。環境的にも情報的にも外界から隔絶された、いつまでもつづくように思えた少年時代。学校の友だちはずっと前から一緒だったが、その夏は珍しく転入生がやってきた。ミウという名、たまご型の輪郭、肩までの髪、ぼくを見て笑ったときの、いたずらっぽい感じ。ぼくは彼女のことばかり考えるようになった。ミウは不思議な少女だった。転入生というのも珍しいが、まとっている雰囲気やふるまいもほかの子どもたちとは違っている。皆で隠れオニをして遊んだとき、ぼくは草の陰に裸でうずくまっているミウを発見する。彼女ははずがしがるふうもなく「つかまっちゃったか」と言い、服を着るとぼくと一緒に皆のところへ戻った。

 思い出から醒め老人に戻ったタキタの脳裏には、ミウの印象はいささかも薄れずに残っている。しかし、あの夏のあとミウがどうなったか、まったく覚えていない。それどころか彼自身の人生も曖昧だ。いつか島から出て本土で仕事に就き、祈素ネットワークの役目を果たしつつ、結婚もしたはずなのだが、その妻の名前も顔もまったく覚えていない。

 あの夏の思い出、ミウの印象だけが、くっきりと変わらぬままにある。かつてレイ・ブラッドベリは「みずうみ」という短篇を書いた—-〔肉とモラルが、意味をもちはじめる以前の恋。横たわっている風と水と砂とおなじに、永遠に汚れを知らぬ恋〕(宇野利泰訳)。この一節は、そのまま『世界の涯ての夏』にあってもおかしくない。そんな恋の前で時間は止まる。

 タキタはミウの面影を求めて、3Dキャタクターデザイナーのノイに、イメージの再現を依頼する。ミウの写真も残っていない漠然としたオーダーであったため、ノイはせめてもの足がかりにしようと、ネットで見つけたフリー素材から適当と思われるものをタキタに見せる。そこからタキタの意見を聞き、段階的に調整を加えて完成へと近づけていくプランだったが、サンプルを見たとたんにタキタは「信じられない。これは、彼女です。ミウです」と感嘆する。

 偶然の一致? ミウのイメージが遍在している? あるいはタキタの記憶の混乱? ここでもまた「そもそものはじまり」がわからなくなる。

 はじまりに六年生のぼくとミウがいて、その記憶をいまのタキタが再現しているのか? はじまりに老齢のタキタがいて、遡及的にあの夏が構成されたのか?

 この作品が傑出しているのは、「解釈しだいでどちらでもありうる」という当たり前の結論で決着させず、かといって「真相はこうだった」というパズル的な種明かしにも終わらない点だ。タキタ/ぼくの個人的な事情にとどまることなく、〈涯て〉と世界の相克(?)と結びついて、いまここにいるぼくたち(そう、あらゆるヒトという意味での「ぼくたち」だ)の生を映しだす。

(牧眞司)

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