「議論ができない人」という議論ができない人
今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
「議論ができない人」という議論ができない人
「『議論のできない人、4つのタイプ』」 2014年02月17日 『ヽ|∵|ゝ(怪人1面相) の ただの思いつきblog』
http://d.hatena.ne.jp/fantom_1x/20140217/1392564983
ネットでよくこういうのを見かける。イケダハヤトも似たようなことを書いている。
「「残念な人」の議論スタイル、5つの特徴」 2013年03月13日 『イケハヤ書店』
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/21808
でも両人とも典型的な、議論ができない人だと思うんだよね(苦笑)。
なぜか?ようするにいろいろ書いてあるけど、結局は「不愉快な相手とは議論したくない」という1点だけ。いいかえれば不愉快な理由をいろいろ列挙している。
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議論ができるかできないかと、不愉快か不愉快でないかは別なことだ。これを同一視している点が根本的にこれらの人が共通して間違っている点。
心地よい相手と楽しく議論ができるのは当たり前で、幼稚園児だってできる。幼稚園の先生は園児が不愉快にならないように会話してくれる。しかし同じ幼稚園児同士だとそんな配慮はないから、先生とには何でも言えるけど、友達とはうまく会話できないとかあるわけだ。
幼稚園児ならそれでいいけれど、成長するに連れて対等の相手との会話が増えていく。あるいは自分が幼稚園の先生の立場になり、相手を思いやって会話する立場になる。いずれにせよ心地よい相手とだけ議論していればいいという時期は終わる。
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北朝鮮とかしばしば日本をコケにした声明を出すよね。非常に不愉快。でも不愉快だからといって国同士の交渉を閉ざしてしまったら戦争になる。自分を見下しコケにするような相手とも、必要な議論はしなければならない。これが大人の議論というもの。
そういう視点で見れば、どういう人間が議論できない人間かは、ガラッと変わると思うんだけどね。それまで「自分を苛立たせ不愉快にする相手=議論ができない人間」と見ていたのが、180度変わる。ちょっと苛立たせると途端に感情的になり、席を立つような人間が議論ができない人間ということになる。
もっといえば、議論に値する人間かは、挑発してみればいい。挑発してすぐに感情的になる人間は議論に値しない。挑発しても平然と議論をし続ける相手こそ真に怖く、同時に議論に値する人間。そういう人間は有能で、仮に敵であっても有能な交渉相手として価値がある。
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結局、不愉快だとか自分を見下しているとかは、単なる自分個人の都合なんだよね。たとえば誰かが俺を馬鹿にして見下したとする。当然俺は不愉快ではあるけれど、しょせんはただそれだけのこと。単に俺が不愉快というだけで、大勢に影響ない。
例えば俺が国の代表、企業の代表、組織の代表として交渉の場にいる時に、自分個人が不愉快だということなど些細なこと。国の利益、企業の利益、組織の利益の前には、どうでもいいことなのだ。逆に俺が個人的に不愉快だという理由で席を立ったらどうなるか。そのために国と国殿交渉を決裂させて戦争に突入していいのか。
なにもそういうだいそれた場でなくても、あらゆる議論は真理の探求のため。そのためには多少不愉快な思いをするぐらい些細なことだと思うんだけどね。不愉快な思いをしてまで議論をしたくない(真理を探求したくない)という人は、しょせんその程度にしか議論を重視していないということ。
つまり議論に対する意気込みがその程度の人は、ようするに娯楽や暇つぶしなわけで、たとえ議論してもたいした成果は得られず、議論する価値がない。
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年02月25日時点のものです。
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