50km圏内の食材で、温泉街の食を支える。熊本・黒川温泉郷「Au Kurokawa」の挑戦
一泊二食付きの温泉旅行は、日本の旅の定番スタイルである。ゆっくりお湯に浸かって、宿から、さらには部屋からも一歩も出ずに美味しいものが食べられる……なんて至極のぜいたくだ。
ところが、残念なお知らせがある。このままいくと温泉旅館では、料理や配膳をになう方が減り、一泊二食付きのスタイルがこれまでのような当たり前ではなくなるかもしれないというのだ。
そんな状況に先手をうって「飲食は、飲食の専門店に任せよう」とする宿が現れた。それも定評のある飲食店や、ミシュランの星付きシェフを招致し、複数の選択肢を用意してお客さんにとっても嬉しいスタイルに変更しようとする試みである。
熊本県南小国町(みなみおぐにまち)、黒川温泉郷で始まった、地域共有レストラン「Au Kurokawa(アウ クロカワ)」を訪ねた。
黒川温泉郷の「Au Kurokawa」(提供/Au Kurokawa)
「これからの黒川温泉を支える食の拠点」
熊本県南小国町の黒川温泉郷へは、熊本空港から車で約1時間半ほどで着く。筆者の暮らす南阿蘇村からも車で北上し、やはり1時間ほどである。
ドライブロード「やまなみハイウェイ」の周囲には、どこまでも草原の緑が広がっている。黒川温泉郷は、阿蘇の自然に抱かれた谷あいにある。初夏はキラキラした新緑に覆われ、秋には鮮やかな紅葉が楽しめる、静かな温泉地として人気がある。
狭い敷地内に約30軒の旅館がひしめくように建っているが、そのぶん、温泉街がこぢんまりとしていて風情があり、のんびり散策するにもちょうどいい。
お湯の質がよいのはもちろんのこと、「町全体がひとつの旅館」のビジョンを掲げて露天風呂をハシゴできる「入湯手形」を発行した観光温泉の先進地でもある。
黒川温泉郷の街並み(撮影/筆者)
この温泉街の中心地から歩いて10分ほどの場所に「Au Kurokawa」が設立されたのは2年前、2024年のことだ。
「Au(アウ)」なんてフランス風のしゃれた冠詞がついていて、初めて聞いたときは何ごとかと思ったが、「Au Kurokawa」とは、「会う、黒川」のことだという。
約3000坪の敷地を使って整備された地域共有レストラン群を指す。ホームページを開くと、「これからの黒川温泉を支える食の拠点」とある。
地元の食材を積極的にもちいる飲食店が集まり、阿蘇小国郷の食文化を体験できる“食のハブ”を目指している。8棟あるなかで、現在はパン屋を含めて5軒の飲食店がオープンしている。
日本の温泉旅館では、長らく一泊二食付きのプランが定番だった。
ゆっくりお湯に浸かったあと、部屋から一歩も出ずに、上げ膳据え膳でごちそうが食べられるなんて発案した人は天才だなと思う。海外からの観光客にも人気がある。
ところが新しい温泉旅館のありかたとして、「夕食は飲食専門の店で一流の料理を味わいませんか?」と、さらなる贅沢を「泊食分離」のスタイルで提案する宿が誕生したのである。
黒川温泉の旅館「奥の湯」のお湯(提供/奥の湯)
「泊食分離」の提案
1号店として、パン屋「Au Pan&Coffee」が2024年にオープン。その翌年、豚肉専門料理の店「豚皇-TONKOU-」と、あか牛専門店「褐 -aka-」。さらについ先日、2026年8月に熊本市内で営業していたミシュラン二つ星の「新屋敷 幸福論」のシェフが新装オープンする形で日本料理「翔隆」と、東京のミシュラン一つ星「LATURE」出身のシェフによるジビエフレンチ「KAZANE」がオープンした。
構想から足かけ5年を経て、パン屋、豚肉料理、あか牛料理、ミシュラン和食にフレンチが出そろったことになる。Au Kurokawaいよいよこれから本番、といったところだろう。
これまでは宿で温泉に浸かり、浴衣に身を包んで和食……が一般的だったところへ、フレンチやミシュラン和食などの新しい選択肢ができ、一流シェフによる至高の料理に舌鼓を打つ、これまでとはまた違うぜいたくを味わうことができるようになった。
日本料理「翔隆」のカウンター(提供/Au Kurokawa)
日本料理「翔隆」のお料理(提供/Au Kurokawa)
熊本のミシュラン二つ星店「新屋敷 幸福論」を手がけた都原慎司さん(提供/Au Kurokawa)
ただ、こうした「泊食分離」のスタイルを始めた背景には、温泉旅館が抱える悩みがあった。
この試みを始めたのは、「奥の湯」3代目の音成貴道(おとなり・たかみち)さん。パン屋「Au Pan&Coffee」と、ジビエフレンチ「KAZANE」はオーナーとして経営もしている。
「黒川に泊まってくださるお客さんをターゲットとして、うちの宿に泊まってくだされば星付きレストランの料理も選択できますよという試みです。8月にできた2店は、各店カウンター12席と決まっているので、席数も限られます」(音成さん)
「奥の湯」3代目の音成貴道さん(撮影/筆者)
いま奥の湯を予約すると、宿とセットでAu Kurokawaのレストランを選ぶことができる。黒川温泉内のほかの宿にはまだ広がっていないが、今後検討していく。
宿からAu Kurokawaまでは少し距離があるため、送迎もしてくれる。
すべての飲食店は、音成さんが直接声をかけて集めた。
「飲食のことは飲食の専門の方にお任せしようと。うちで直接経営する2店以外は、スケルトンでお貸しして、スケルトンにして戻していただくスタイルです。内装を含めてお店のほうでやっていただいています」
「Au Kurokawa」(提供/Au Kurokawa)
地産地消を掲げて。神山町のフードハブがプロデュース
Au Kurokawaを訪れると、もとは段々畑だった敷地が緑の芝生で覆われていて、空間全体が美しかった。飲食店が集まっているといっても、それぞれ少し離れていて、一部は木陰に溶け込むようにして建っているため、広々として落ち着いている。
パン屋「Au Pan&Coffee」は、宿泊客以外も利用しやすい、朝食や昼食、お茶するための店として用意された。木製のロッヂ風の建物で、大きな窓ガラスが開放感を感じさせる。中へ入ると、ドーナツ、ベーコンエピ、あんパン……と店内で焼いたパンが並んでいる。
熊本産のピーナッツバターやクラフトコーラなどお土産になりそうな品もある。
「Au Pan&Coffee」の店内(提供/Au Kurokawa)
「Au Pan&Coffee」のドーナツ(提供/Au Kurokawa)
「Au Kurokawa」を初めて知ったのは、徳島県神山町の「フードハブプロジェクト」が参画していると、知人に聞いたことにあった。
神山町へは、数年前に取材で訪れたことがある。神山は、かねてよりIT企業がサテライトオフィスを構え、移住者が増え、新しいタイプの高専ができるなど、地域づくりの界隈では有名な地域である。
なかでも「地産地消」には町をあげて取り組んでおり、そのシンボルでもあるフードハブプロジェクトが運営する食堂「かま屋」では、地元産の野菜をふんだんに使った料理を提供している。野菜が新鮮でいきいきとしていてボリュームたっぷりのランチが美味しかったこと……!「今週の産食率69%」と自給率がきちんと公表されるなど、並々ならぬ本気度を感じたものだ。
かま屋に掲げられていた生産者の名札(撮影/筆者)
このかま屋の横に建っていたのが、姉妹店のパン屋「かまパン&ストア」。神山産の小麦を使った焼きたてのパンや、季節野菜の調理パンが人気で、フードハブの売り上げの5割を上げていた。
Au Kurokawaにはこのフードハブが協力している。かまパンの店長兼シェフの笹川さんが何度も黒川温泉へ足を運び、レシピの提供や「Au Pan&Coffee」のスタッフへのパンづくりの指導をしているというのだ。
フードハブがプロデュースに入っているなら、Au Kurokawaも本格的に「『地産地消』を掲げます」とする宣言だと受け取ったのは、おそらくわたしだけではないだろう。
かまパンの笹川さん(提供/Au Kurokawa)
Au Kurokawaでは50km圏内で調達できる食材を扱うのを基本方針にしている。
「コーヒーやオリーブオイルなど入手が難しいものを除くと、わたしの運営するパン屋とジビエフレンチは、地産にこだわっています。50km圏内には大分県の九重町や竹田市も含まれますし、チーズなどは南阿蘇から。味噌も醤油も地元のもので、あか牛や豚は当然熊本産です。ほかの店でもできるだけ近場のものを使ってもらっていて、難しくても熊本県産、九州産のものを選んでもらっています」
「Au Pan&Coffee」で使用している熊本県産の小麦やきなこ(撮影/筆者)
Au Kurokawaを発想した理由
もう一つ、音成さんがAu Kurokawaを始めた背景には、より大きな課題があった。
「黒川温泉は人気があって、ありがたいことにお客さんは多いんです。でも近年、従業員が集められなくなってきていて。部屋は空いていても、100%稼働できないのは、人手不足によるものです。仲居さんが足りない、調理場の板場さんが足りない。集められなくなってきているんですね」
奥の湯に限らず、黒川温泉では、どの宿も同じ悩みを抱えている。
一泊二食を宿でまかなうには、朝食の準備から夕食の片付けまで、スタッフは長時間労働になってしまう。それが今の時代には全く合ってないのではないかと音成さんはいう。たしかに、その通りかもしれない。
つい先日「日本の人口、1億2000万人を割り込む」のニュースが流れたばかりだ。SNSでは、今さら驚かないといった声をいくつも目にした。
人手が足りない状況は、どんな分野でもますます加速するのだろう。和食の料理人に限らない。黒川温泉だけの話でもない。日本全国どこの温泉旅館にもいえることだ。
ただ、人がいないからサービスをやめるのではなく、「どんなスタイルならお客さんも喜んでくれるか?」と考え、舵を切ったのが、今回の取り組みではないかと思う。
ジビエフレンチ「KAZANE」の料理(提供/Au Kurokawa)
ジビエフレンチ「KAZANE」の料理(提供/Au Kurokawa)
新しい時代に向けての試行錯誤を
奥の湯は、もともと医者だった音成さんのお祖父さんが開業した宿だった。療養を目的とする湯治のための長期滞在型の宿。音成さん自身も、若いころはなんと歯科医で、タイで10年間歯医者をしていた異色のキャリアの持ち主である。
きっとそんな人だから、黒川温泉に戻り宿主になってからも、古くからある温泉宿の慣習にとらわれない発想ができたのだろう。
「きっかけはコロナ禍でした。コロナの間、お客さんはほとんどいなかったのですが、一組でもいらっしゃると、館内の電気は全部つけて、風呂はためておく必要があります。料理人も出てきて配膳のスタッフも必要で……となるじゃないですか。ほかの旅館も同じで。だったら食事だけでも一カ所に集めて、専門の方にお願いしたほうが経営的には効率化できるんじゃないかと。リスク分散ですよね。みんなで共有して使えるものがあったほうがいいだろうと」
「奥の湯」の温泉「もみじの湯」(提供/奥の湯)
「実際のところ、Au Kurokawaのすべての敷地が飲食店で埋まっても、受け入れられるキャパには限界があります。なので、従来どおり一泊二食にこだわる宿があってももちろんいいんです。黒川の中でも、さまざまなタイプの宿が共存できればいいのではないかと思っています。お客さんにとっても、選択肢がいろいろあるほうが楽しいですよね」
これまでうまくいってきた従来のやり方を変えるのは、誰にとってもなかなか難しいものだ。温泉旅館の一ファンとしても、これから先もずっと一泊二食付きの旅館スタイルもぜひ続いてほしい。
しかし、ほんとうにニッチもさっちもいかなくなってから、考え始めるのでは遅いのかもしれない。
「黒川温泉の台所」と銘打って8棟のレストランが入るAu Kurokawaができたことは、数年後にほんとうに黒川温泉全体を支える大きな助けとなるかもしれない。あるいは、ほかにもっとよい選択肢が出てくるかもしれない。
今はあらゆる産業で、新しい時代に向けて、試行錯誤することが求められているときなのだと感じる。Au Kurokawaは、その挑戦の一手である。
「Au Kurokawa」の入り口(撮影/筆者)
●取材協力
Au Kurokawa
奥の湯
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