【ライブレポ】平手友梨奈が日本武道館で示した「私」の実在──ソロワンマンライブ〈アナタタチノカルテ〉

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誰かが与えた名前やイメージによって輪郭を与えられながら、そのどれにも収まりきらない。それが、平手友梨奈という存在である。
2026年8月20日、東京・日本武道館にて、平手友梨奈のソロワンマンライブ〈アナタタチノカルテ〉が開催された。そこで平手が描いたのは、誰かによって書かれた自分自身の記録ではなかった。歌、ダンス、演劇、映像、言葉。そのすべてを使って、記録には残らない「私」の実在を示す、ひとつの物語だった。
ソロとしては初の日本武道館公演。2025年8月21日に東京・Zepp DiverCity(TOKYO)で行われた初のソロワンマン〈平手友梨奈 1st LIVE “零”〉から、ちょうど1年ぶりのステージだ。
そして、この日のステージは、いわゆる「歌って踊るライブ」という言葉だけでは捉えきれないものだった。ライブでもあり、ミュージカルでもあり、劇のようでもあり、絵本を見ているようでもあった。
脚本を谷碧仁、総合演出をSeishiroが手がけ、平手自身もCreative Partnerとして制作に深く関わった本公演。楽曲、ダンス、演劇、映像、ナレーション、ポエトリー朗読、そして生バンドの演奏が一つの物語として連なっていく。約70分という決して長くはない時間のなかに、濃密な世界が凝縮された、ひとつの舞台作品といえるステージだった。
オープニング映像に映し出されたのは、黒いフードのついた衣装をまとい、赤く咲く彼岸花を手に歩く平手の姿。その姿は、この公演の冒頭を象徴するモチーフとして、強い印象を残した。
やがて、神殿を思わせるセットの中に平手が姿を現すと、ゴシックな衣装に身を包んだダンサーたちと一糸乱れぬダンスを繰り広げながら、ダンスアンセムをフロアへと叩き込んでいく。時にはオーディエンスを煽りながら、すさまじい表現力でステージを支配していくその姿には、平手友梨奈にしか生み出せない存在感があった。

この公演で平手は、単に楽曲を歌うだけの存在ではなかった。時には物語の登場人物として、また時にはその物語を紡ぐ語り手として、舞台そのものを進行させていく。平手自身のナレーションやポエトリーが楽曲と楽曲をつなぐのだが、その言葉は詩のようでもあり、台詞のようでもあり、独白のようでもあった。現実なのか、それともフィクションなのか。その境界をあえて曖昧にすることで、観客はいつしか、平手が描き出す物語の中へと引き込まれていった。
そして、その中心にいる平手の存在感は、やはり圧倒的なものがあった。歌声はもちろん、表情、身体の動き、視線のひとつひとつまでが演出の一部になる。ダンサーたちによる群舞の美しさと、その中心で際立つ平手という「個」の美しさ。その対比が、ステージ全体に鮮やかな彩りを生み出していた。
一方で、そこにあったのは常に張り詰めた平手だけではない。可愛らしさを全開にした姿を見せたかと思えば、同じ衣装のままクールな表情で歌う。これまで広く知られてきたイメージだけでは捉えられない表情が、次々と現れていく。
また何より印象的だったのは、そこに「平手友梨奈が楽しそうに歌っている」という瞬間が確かに存在していたことだ。
これまで彼女のステージを観てきた人にとって、平手の表現は時に緊張感があり、見る側にも覚悟を求めるものだった。しかしこの日は、その高い表現力を持ちながら、同時に音楽そのものを楽しんでいる姿があった。それは、過去を知る観客にとって特別な意味を持つものだった。
そして、そうしたさまざまな姿を見せることこそ、この〈アナタタチノカルテ〉というステージが描こうとしたもののひとつだったのではないだろうか。

公演の途中、スクリーンに「カテゴライズは個性の死」「価値観の押し付けは殺人」という言葉が綴られた。
誰かをひとつの言葉や属性に当てはめること。それによって、その人を「わかった」つもりになること。けれど、人間はひとつの名前や肩書きだけでは語り切れない。カテゴライズされることで輪郭を与えられる一方、その輪郭からはみ出した部分は見えなくなってしまう。
〈アナタタチノカルテ〉が描いていたのは、まさに、そうした「カテゴライズ」からの脱却だったのだろう。
だからこそ、この公演は、ひとつのジャンルに収まる音楽ライブでは成立しなかった。歌、ダンス、演劇、映像、朗読、そして舞台美術。さまざまな表現を交差させながら、ひとつの形に収まりきらない世界を作り上げていく。その構造そのものが、「カテゴライズは個性の死」という言葉への答えになっていた。
そして、このステージが観客に投げかけていたのは、平手友梨奈自身についての問いだけではなかったように感じる。
「あなたは、あなたのままでいい」。
そんなメッセージが、直接的な言葉としてではなく、さまざまな場面、表情、音楽、物語を通して静かに伝わってくる。
誰かに決められた名前にならなくてもいい。誰かの価値観に合わせなくてもいい。誰かが用意した枠に、自分を無理に収めなくてもいい。
それは、平手自身がこの夜、ステージの上で体現していたことでもある。

平手友梨奈という人物には、これまで数多くの彼女を形容する名前が与えられてきた。
そして、その名前とともに、さまざまなイメージや物語が彼女の周囲に積み重ねられてきた。しかし、それらはあくまで「輪郭」に過ぎない。
〈アナタタチノカルテ〉というタイトルが示していたのは、他者によって記録され、語られ、意味づけられてきた「平手友梨奈」の姿を一度解体し、その記録の外側にいる「私」を探すことだったと思う。
また、このステージでは、「黒いフードのついた衣装」や「彼岸花」など、これまでの平手友梨奈を想起させるモチーフも随所に現れていた。それらはファンサービスとして置かれたのではなく、平手友梨奈という存在に刻まれた過去そのものとして、提示されていたようにも感じられる。
けれど、この日の彼女は過去を再現するために、このステージへと戻ってきたわけではない。過去を背負いながら、それでもそこから先へ進むために、もう一度この場所に立ったのだろう。
この日の平手は、ひとりの表現者として、確かに「いま」の存在としてそこにいた。誰かに与えられた名前でも、誰かが書き残したカルテでもなく、自分自身の身体と声で、その実在を示すために。
我々は、平手友梨奈について語ることができる。
過去を振り返り、楽曲について語り、ステージについて語ることもできる。
しかし、そのどれだけの言葉を積み重ねても、この夜、ステージに実在した彼女そのものを完全に記録することはできない。
ここまで綴ってきた言葉もまた、〈アナタタチノカルテ〉という作品を見た一人の観客による、ひとつの解釈に過ぎない。きっと、このステージに明確な「正解」はないのだろう。平手の表現は、観る者に答えを与えるのではなく、それぞれの中に異なる問いを残していくものだからだ。
そして平手友梨奈は、誰かのカルテに収まる存在ではない。
約70分のステージを駆け抜けた彼女は、最後まで「私とは何者なのか」という問いに明確な答えを与えなかった。
その代わりに、自らの表現そのものを差し出した。そして、その表現を目撃した観客一人ひとりの中に、新しい「平手友梨奈」が生まれていた。
この公演のラストを飾ったのは、まるで舞台作品の終幕を思わせるカーテンコールだった。バンドメンバー、ダンサーたちが順番にステージへと姿を現し、それぞれが観客に向かって深々と礼をする。そして最後に平手が中央に立つ。
大きな拍手に包まれながら、平手はゆっくりと頭を下げた。その表情には、込み上げるものを必死にこらえているような、それでいてどこか安心しているような表情が浮かんでいた。
その瞬間、彼女の胸には何が去来していたのだろう。
「アナタタチノカルテには私はいない」。
その言葉を抱えたまま、観客は武道館を後にする。
我々は、平手友梨奈を理解したわけではない。ただ、その瞬間、確かに彼女がそこにいたことだけは知っている。
カルテには残らないもの。言葉にも、写真にも、記録にも完全には写し取れないもの。しかし、忘れられない記憶として確かに残っているもの。
それこそが、この夜、日本武道館で目撃した「平手友梨奈」だったのではないだろうか。

取材&文 : ニシダケン
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