ある女性の失踪と残された人々の物語〜井上荒野『しずかなパレード』
「引退パレード」の場面から、この小説は始まる。とは言っても、有名なスポーツ選手などのそれではない。毎週日曜日になるとグロテスクな化粧をした姿で現れ、痛々しいパフォーマンスをする「カンフーマン」と呼ばれる男が、ひとりで歩いているだけだ。いつもは奇声を発しながら珍妙な動きをするのに、「引退パレード」という幟を背負って静かに歩いている。こういう街の名物みたいな人物には、私も覚えがある。家族や知人との間で話題にはなるけれど、深く興味を持ったりしない場合がほとんどなのではないか。この小説の登場人物たちにとっても、そのはずだったのだが…。
小堺晶は、家族と一緒にレストランに向かう途中で、偶然このパレードを見かけた。晶は、九州の港町にある和菓子屋の店主の妻だ。東京ではフリーエディターとして働いていたが、今は若女将として店を手伝いながら、4歳になる娘・結生を育てている。誕生日のお祝いに、夫・伸伍は老舗の洋食店を予約し高価なプレゼントも用意してくれていた。幸福な家族のように思えるが、晶には秘密があった。友人の紹介で知り合った脚本家・武藤と、つきあっているのだ。武藤は東京に住んでいるがこちらに別荘を持っており、二人はそこで密かに会っていた。祝いの食事を終えて帰宅した後に、晶は夫にそのことを打ち明け、ひとりで家を出て武藤の別荘に向かう。
途中に立ち寄ったカフェに、化粧を落として素顔になった「カンフーマン」がいた。なぜ引退するのかと、晶は尋ねる。そのことがきっかけとなり、冒頭のたった約20ページで、この小説の中心人物である晶は姿を消してしまう。武藤の別荘に現れず、夫と娘の元に戻ってくることもなく、しばらく後に車だけが別の場所で発見され、警察は捜査を始める。
ここからは、残された人々それぞれの物語である。伸伍は、怒りを露わにして武藤を問い詰め、妻の裏切りと失踪に衝撃を受けながらも娘を気遣う。武藤は、晶の不在を気にかけつつも、他の男のところに行ったのだと自分に言い聞かせ、次の恋人を作る。結生は、突然に母親が不在となり、周囲の大人たちに守られつつも情緒が不安定になっていく。武藤の妻・麻里恵は、夫が警察の事情聴取を受けていても、何も関心がないように振る舞う。
行方はわからないまま時は流れ、十二年が経過する。誰もが、晶の失踪による心の傷や不安を密かに抱えて生きている。それぞれの中だけにあるはずの感情は、何かをきっかけに噴き出て、周囲の人にも影響を及ぼす。登場人物ひとりひとりに確かな厚みがあり、それぞれの葛藤から目が離せない。そして最終章、想像しなかった形で「カンフーマン」が再登場する。
自分の人生を俯瞰することはできる人は、いないのだと思う。思いもよらないところで運命は動き、そのことに気づきもしないまま時は進んでいく。ごく身近なところにいる人に何が起きたのかも、心の中で何を思っているのかも、本当には知ることができない。奇妙なパレードに出くわす瞬間は、きっと誰の人生にも訪れる。生きることの理不尽さと不思議について、考えずにはいられない小説だ。
(高頭佐和子)

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