サバービアの怪物小説〜マックス・ブルックス『モンスター・パニック!』
あ、なるほどそういう小説か。
マックス・ブルックス『モンスター・パニック!』(浜野アキオ訳/文藝春秋)を読んでいて、いろいろ腑に落ちた瞬間があった。この感覚をぜひみなさんにも共有してもらいたい。
小説の原題はDEVOLUTIONである。いろいろな意味のある単語だが、法律用語では相続人などへの権利の移転、官職を付託するというようなときに使われることもある。Evolutionの反対語だから退化という意味もある。さあ、どれが正しいのだろうか。邦題に『モンスター・パニック!』とつけた意図もよくわかる。これは怪物が人間を襲ってくるというパニック・スリラーなのである。なにしろ「まえがき」の第一行が「ビッグフット、町を襲撃」である。ビッグフット、つまり雪男だ。雪男が町を襲撃する話なのか、そうか。
マックス・ブルックスという作者は凝った趣向が好きな人で、本作の前に書かれた『WORLD WAR Z』(文春文庫)は突如大量発生したゾンビと人間の間で戦争が繰り広げられた後で、そのとき何が起きたのかが多数の証言によって構成されていくという疑似ドキュメンタリー・ノヴェルであった。略称がWWZとなることからわかるとおり、世界大戦のノンフィクションを模しているわけで、そんな形でゾンビ・パニックを描いたわけである。もちろん、根底にはジョージ・ロメロ監督の映画作品への意識があったことだろう。
本書も作者であるマックス・ブルックスの元にビッグ・フットによって町が襲撃されたという記事が送られてくることから始まる。それが前出の「まえがき」で、ワシントン州のレーニア山が噴火し、周辺の集落が孤立したときに事件は起きたという体になっている。物語の大部分を構成しているのは、事件のあと行方不明となったケイト・ホランドという女性の手記である。まだ死亡は確認されておらず、彼女の兄フランクは、事件が本になって話題を呼べば妹を見つける手がかりが出てくるかもしれない、と望みを託してブルックスに手記を送りつけてきたわけである。なので、私はまだ半信半疑ですがそのままお見せしますよ、あとは自己責任ですよ、と言いながら作者は読者にそれを見せてくる。怪奇小説の伝統的な手法に則ったやり方である。
事件当時ケイトが暮らしていたのはグリーンループという「ハイエンドかつハイテクのエココミュニティ」である。つまり高い技術によって自給自足の自然に優しい住環境が実現しているということである。住人も当然ながら意識の高い人々ばかりで、そういう隣人とケイトとの、Facebookでお互いにいいねをつけまくっているような生活が初めのうちは綴られていく。SNSのいいねボタンを押す習慣があまりない読者はこのへんで脱落しそうになると思うが我慢だ。私だって親指を下に向けるボタンがあったら押したくなったがぐっと堪えたぞ。
やがて噴火が起き、グリーンループは周囲から孤立してしまう。そうなると途端に、生きるための必死な闘いをしなければならなくなるわけで、野生動物を捕らえて食うのは残酷ではないか、というような口論も起き始める。理想ばかり言っていられなくなってぎすぎすし始めるのだ。そんな中で事件が起きる。コンポストが荒らされ、後に巨大な足跡が遺されているのをケイトたちは発見するのである。清掃動物の仕業だとしても、こんな大きな種族がいるだろうか、などと言い交わしているところに怪物が姿を現す。
いったん遭遇してからの展開はほぼ定石通りなので省略する。生き残りを賭けた闘いになる、とだけ言っておこう。一気に話は緊迫しておもしろくなる。さすがブルックス。
書きたいのはそこではない。ブルックスはなぜこの作品で危難に遭う人々を、いわゆる意識高い系として書いたのか、という謎解きだ。仮説があるので聞いてもらいたい。
謎を解く鍵は第一章にある。ケイトたちが暮らすグリーンループは〈レヴィットタウンの現代版〉だという説明があるのだ。
第二次世界大戦終了後、アメリカでは復員軍人とその新家庭のために大量の住宅需要が発生した。不動産事業者ウィリアム・レヴィットは社会事情を背景に、大規模な住宅供給をして財を成したのである。彼がニューヨーク州ロングアイランドに造成した第一号の住宅地がレヴィットタウンである。流れ作業で建材を供給し、庭付き一戸建ての高級住宅を比較的安価で提供する。この目論見が成功し、以降も郊外住宅地は増加し続けた。郊外に庭付き一戸建てを持ち、都市で働くという生活様式の誕生である。郊外生活者、すなわちサバービアだ。
第一次サバービアの特徴は選択性と閉鎖性にある。彼らは住環境の悪化した都市を離れ、郊外を新しい生活の地に定めた。そこは選ばれた住民のコミュニティでなければならなかった。たとえば白人だけの、たとえば一定以上の収入がある家庭だけの。こうして理想のコミュニティができあがり、そこでの暮らしはアメリカン・ウェイ・オブ・ライフと呼ばれた。
先般角川新書で復刊された大場正明『サバービアの憂鬱』は、こうして形成された郊外のコミュニティがどのように変質していくかを大量の文学と映像作品で読み解く画期的な評論である。最初の閉鎖的なサバービアにおいては倫理観も含めて一から新しく作られていくが、その窮屈さがやがて軋轢の元となる、ということをたとえばジョン・チーヴァーやジョン・アップダイク作品から。閉鎖的で外部とはテレビの画面を通じてしかつながっていない、というような停滞がもたらす鬱屈が何を生むかということを、たとえばスティーヴン・スピルバーグの映画から。大場は読み解いていく。サバービアこそは戦後アメリカ文化の光と影の双方を象徴する存在なのである。
グリーンループがレヴィットタウンの現代版だということはつまりつまり、これはサバービア小説だということではないか。同じ価値観で集まったはずの人々だけが集まった暮らしは理想のものであったはずなのに、その中でなぜか澱みが生じ不協和音が流れるようになる。それが臨界点を迎えたとき、怪物がやってきてすべては崩壊するのである。サバービアの憂鬱を怪物小説の形で書くとは。マックス・ブルックスは映画監督メル・ブルックスと俳優アン・バンクロフトの子である。メル・ブルックスは名作の換骨奪胎が上手かったが、父親に技法を倣ったか。なんとも捻りのきいた小説である。
前半のFacebookいいね小説ぶりはこの構造を念頭に置いたものだったか。なんとも皮肉が効いているな、と思うのは、視点人物のケイトが何かあるとすぐに「Siri、あなたはどう思う」と聞くことで、物語の後半でこの伏線が効いてくるのだ。Devolutionという題名にも納得だ。サバービア小説ならなるほどそういうところに落ち着くだろう、という形が見えてきたところで物語は終わる。あとにざわざわした気持ちを残して。
(杉江松恋)
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