パンデミック後の世界の老人の決意〜マイクル・Z・リューイン『祖父の祈り』
マイクル・Z・リューインがなんと『ザ・ロード』を。
あ、THE 虎舞竜ではなくてコーマック・マッカーシーである。破滅した後の世界を父子がさまようSFスリラーだ。THE 虎舞竜のほうは『ザ・ロード』じゃなくて「ロード」か。今では15弾まで作られているらしいが、『祖父の祈り』はそんなに長くない。ハヤカワ・ミステリだが一段組みで216ページ、長めの中篇とも言える。
食料雑貨店の前に老人が佇んでいる場面から物語は始まる。店に近づいてきた男に老人は話しかける。マスクをしないで家を出てきてしまったので店に入れない。代わりにビールの六缶パックを買ってきてくれないか、と。老人の話はくどくどと長く、男はうんざりしながらもそれを聞いてやる。だが店は九時半に閉まる。あまり話が長いとビールは買えなくなってしまうんじゃないのかい、じいさん。だが、人は助け合って生きていかなければいけないものだ。男は辛抱強く老人の話を聞いてやる。
そして、びっくりするようなことが起きる。
『祖父の祈り』の舞台は近未来だ。上に紹介した第1章の情景ではそれとはわからないが、未知のウイルスによるパンデミックが何度も起こり、国家が機能停止状態に陥った後のことらしい。生命維持のために必要な食事や衣服はフードバンクと呼ばれる施設に行かないと手に入らなくなった。住居はもう管理統制ができなくなっており、主人公の老人は一家と共に廃屋にもぐりこんで暮らしている。一家とは彼の「娘」とその息子である「少年」だ。この物語で彼らは名前を与えられておらず、老人、娘、少年と呼ばれる。老人の「妻」についても言及がある。ウイルスの第四波で彼女は命を落とした。残された家族が老人にとってのすべてである。彼らを守るためにはなんでもする。
老人がいわゆるタフガイではないことが小説の初めのほうで示される。「これまで生きてきた中で一度も(喧嘩をしたことが)ないってお祖母ちゃんが言ってたって、ママが言ってた」と少年に言われてしまうのである。老人はリューイン小説によく出てくる、自分がタフガイであったらよかったのに、と思っている夢想家なのだ。しかし、命に代えても家族を守ると考えている。
物語は少年を軸に進んでいく。この世界では刑事警察は崩壊しており、暴力の恐怖が蔓延している。警察は金バッジと呼ばれ、不法に暮らしている住人などを取り締まるだけの存在だ。つまり日本で言う昔のオイコラ警官である。金バッジに目をつけられれば、自由は失われるのだということがほのめかされる。だから自分の身は自分で守るしかないのだ。老人は家族が心配でならない。家の外には多くの災いが待ち受けているからだ。だが、老人からの束縛を少年は次第に嫌うようになっていく。時に老人や娘の庇護から外れ、無鉄砲に見える行動にも出るのだ。でも仕方ない。だってまだ十四歳なのだ。
「あの子には何かが必要なのよ」娘は立ち止まり、視線を合わせようと老人の肘をつかんだ。「あの子の人生がどんなものか考えてみて」
「まだ人生の途中だってことを?」
「何か彼だけのものが要るのよ。あの子はもう十四よ。それなのに自分だけのものを何も持ってない」
まだ十四歳なのか、もう十四歳なのか。この会話は生きていくということへの問題提起だという気がする。少年にとって世界は、健康的で最低限度の文化的生活を保障してくれるものではないのだ。だから自分の未来を切り開くために動く。そのことによって家族の運命も変ってくる。
この世界は誰にとっても公平に崩壊しているわけではなく、いまだに貧富の差はあるらしい。
「お金持ちの人たちって、今でもジャグジーバスとかいうもののためにお湯を沸かしたりしてるんだよね? ケーキを焼いたり、ほかにも何か焼いたりしてるんだよね?――夜中にいったい何を焼くのか知らないけど」少年はふわふわの犬の首元に顔を埋めた。
十四歳には社会の不公平が見える。自分が決して手に入れられないものを眩しく見つめる。どんなに寒くても体が汚れてもシャワーのためにお湯を沸かすことさえできない自分の境遇と引き比べて見てしまう。そんな少年を見ながら老人は、家族のために未来を手に入れなければならないと考える。
一口で言えば、無慈悲な世界と対決する物語だ。その闘いは容易ではない。リューインの小説らしく手触りは柔らかいが、甘い味ではない。物語の結末をどうとらえるかも読者によって分かれるだろう。稲見一良の某作品にも似た情景が最後には展開される。胸に熱く滾るものがあるが、その向こうには荒涼とした世界も同時に目に入ってしまう。しかし何を見たとしても、老人がその眼に宿った意志を翻すことはないだろう。
コロナウイルスの思いがけない流行は、さまざまなものを変容させた。何よりも恐ろしかったのは孤立を強いられたことだ。世界は分断され、個々の社会の中でも自由が制限され、寛容さが試される事態が続いた。その中で書かれた小説である。一九四二年生まれのリューインは本年八十歳、本編の主人公よりもちょっと上か、同世代というところだろう。家族を守る、という老人の言葉はリューイン自身のものにも感じられる。大切な誰かを守りたい。みなの祈りを背負った小説だ。
(杉江松恋)
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