歌は十八番の1曲だけ! 酒が出てくるのが遅いなら帰る! 信長の接待は超大変

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歌は十八番の1曲だけ! 酒が出てくるのが遅いなら帰る! 信長の接待は超大変

三好三人衆が足利義昭を包囲

年末から信長さまに呼び出されていた藤吉郎も岐阜の新居に帰ってきて、久しぶりというか、初めての穏やかな正月を迎え、私たちはとても幸福でした。永禄12年(1569年)の幕開けでございます。

ところが、1週間もしないうちに、お屠蘇(とそ)気分を吹き飛ばす事件が起きたのでございます。1月5日に、あの厄介な三好三人衆が信長さまに美濃から追い出され、斎藤龍興さまらとともに、足利義昭さまの御所になっていた六条の本国寺を包囲して、激しい戦いになっていたのでございます。


▲六条から山科に移転した本国寺 出典:PIXTA

信長さまは、9日にはわずか10数騎の供回りを引き連れて岐阜を発たれ、2日で京に入られました。あれよあれよと軍勢は途中から増えだし、藤吉郎のように追いかけて美濃から駆けつけたものも含めて3万人にもなっていたそうでございます。

本国寺で義昭さまの警護に当たっていたのは、細川藤孝さま、明智光秀さまなど2000人ほどでございました。奮戦してなんとか防いでいるうちに、摂津方面から信長さまに味方する武将たちが到着し、包囲軍を背後から攻めたので、彼らは退散していたのでした。

ここで、このお話によく出てくる三好三人衆について少し説明しておきます。三好長慶さまの跡継ぎでおられる義継さまの家臣である、三好政康さま、長逸さま、岩成友通(いわなりともみち:阿波出身でなく出自不明)さまの3人です。(※1)

三好長慶の嫡男は義興さまですが、父より先に亡くなったので、甥の義継さまが跡を継がれました。 

しかし、若年ということもあり三好三人衆たちの傀儡にされましたが、彼らと反りが合わなかった松永久秀さまが義継さまを誘って、信長さまの側についたのでございます。この本国寺の戦いのときに、義昭さまを助けた人たちのなかには、彼らの勢力もおりました。

この騒動の原因は、信長さまが関所の廃止を命じられたりされて、既得権をもつ人々の不満が高まったことや、義昭さまの周辺にいる側衆がそれぞれの思惑で動き、一枚岩でないという事情もございました。ちょうど、現代でも首相の周辺が利害と政策の思惑で、それぞれ勝手に動いて政権を不安定にしがちなのと同じでございます。

日本一壮麗な宮殿と言われた二条城

信長さまは、三好三人衆が退散したあとの京に入られ、さっそく、義昭さまの周囲の人たちの内輪揉めも騒動の原因とみて、『殿中掟書』を出して勝手な振る舞いを諫められました。

また、防備もしっかりして、将軍と自分の権威をわかりやすく見せるために、二条城の建設を始められたのでございます。二条城というのは、時期によって3つございます。

本能寺の変のときに信忠さまが籠もられた烏丸御池のもの、德川家康さまが築かれた現在の二条城もありますが、このときの二条城は、烏丸丸太町の交差点の北側にあったものでございます。西は室町通りに面し、東は東洞院通りで、その東半分は現在では京都御苑の一部になっております。


▲京都御苑 出典:PIXTA

このあたりは、もともとは、斯波家の屋敷でございましたので、斯波家に代わって尾張の領主となられていた信長さまにとっては、使いやすかったわけです。

信長さまは、畿内だけでなく、播磨・三河・若狭から人を集め、石材には石仏や石塔まで集めて使い、京のあちこちの屋敷から“名石”も集められました。醍醐寺三宝院にある「藤戸石」もそのひとつでございまして、これは秀吉が聚楽第に移し、あの「醍醐の花見」のときに私たちを楽しませるために三宝院に運んだものです。

 こうして、出来上がった二条城は、南蛮からやってきた宣教師フロイスが「日本でかつて見たことがないほど壮麗な宮殿」といわれ、当時としては異例なほど高い石垣に囲まれたものでございました。しかも、建築には70日間しかかからなかったそうです。

信長さまは、工事現場で会ったフロイスさんによれば、虎の皮を腰にまいた奇抜な服装で指揮を執っておられたそうです。フロイスさんは信長さまが甲高い声だったとも書き残していますが、映画やドラマでは野太い男らしい俳優さんばかりが信長さまを演じおりますから、現代の方にとってはちょっと意外だと思います。ですが、本当にそうであることは、何度も会っている私が保証いたします。

信長さまは、工事現場を通りかかった笠を被った女性のベールを上げて顔を覗いた武士を見つけて、一刀のもとに首を刎ねるほど、兵士たちの風紀には厳しい姿勢を見せて、市民からの信頼を獲得されたとも、フロイスさんは紹介しています。

信長が京に住まなかった理由

藤吉郎には、京に残って丹羽長秀さま、中川重政さま、当時は未だ義昭さまの家臣だった明智光秀さまや細川藤孝さまなどとともに、奉行の1人として京の仕切りをするようにと命じられました。諸大名や寺社に対して出された文書に、藤吉郎が連署しているものが多く残っております。

ほかの方々は、室町幕府ならではの仕事のやりかたによく通じた方々でございますが、従来のやりかただけでは済まない問題を解決するために、あえて、藤吉郎のような下々の事情にもよく通じ、柔軟な発想ができる者も1人は入れていたほうが良いと、信長さまは判断したらしいのでございます。

もともと、厚かましく思いきった提案をして、知恵も出しながら図々しく既成事実にしてしまうのは得意ですから、藤吉郎にはうってつけでございました。また、藤吉郎の弟の小一郎(秀長)は、兄と違って聞き上手で温厚でございますから、藤吉郎が強面で厳しいことをいったあとの始末を、上手にやってくれたのです。

どうして、信長さまが京にお住まいにならずに、岐阜を本拠にしたままにされたかですが、信長さまは、堅苦しく時間がゆっくり流れるような儀式とか娯楽があまりお好きでなかったのです。

戦国武将のいちばんの娯楽は能楽でございます。藤吉郎も好きで、京で楽しんだ話を興奮して私に聞かせてくれましたし、天下をとってからは、自分を主人公にした能を自ら演ずるというようなことまで、恥ずかしげなくしておりました。

信長さまは「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」といった幸若舞というのだけ楽しんでおられました。現代でいえば、カラオケでいつも決まった十八番の1曲だけ歌うオジさん、といったところでございます。

一方、信忠さまや信雄さまなどは、お能が大好きでしたが、それを聞いた信長さまは、怒って信忠さまが集めた道具をすべて棄てさせたというくらいです。

上洛して将軍になった義昭さまは、観世太夫に能を演じさせ、信長さまの歓心を買おうとされましたが、信長さまは、そんなことして浮かれてるときでないとばかりに途中で切り上げさせ、義昭さまが鼓を打つことを所望されても、すげなく断られました。

御所で正月の火祭りである左義長を鑑賞するのに招かれたときも、帝がお酒を賜ろうとされたのを、お銚子が出てくるのが遅いと怒って帰ってしまったりもしました。ともかく、格式張った衣装で長く拘束されるのが嫌な方なのでございます。


▲「秀吉も信長さまのご機嫌取りには苦労しておりました」 イラスト:ウッケツハルコ

それに加えて、過去にも大内義興さまとか、三好長慶さまが京へ上って政務に関わっているうちに、本国が不安定になることも見てこられました。(※2)家臣たちは家族の元を離れての生活で、辛いということもございますし、京の生活で軟弱になりもします。

私たちの時代から二世紀半のちの幕末のことですが、会津藩は京都守護のために国元を離れていたところ、子どもたちの教育にもいろいろ問題が出て、それが戊辰戦争のときにもおおいに響いたというほどなのでございます。

さらに、京の地形が四方に開けており、守るのが難しいということもございました。そういうことを考えて、信長さまは岐阜をしばらく本拠のままにされましたし、のちには、信長さまは安土に移られましたが、信忠さまに家督を譲って、本拠である濃尾が弱体化しないようにされたのでございます。

本拠は京から1日か2日の便利なところに置き、京でなにかあったら、駆けつけるという考えかたなのです。

そのかわりに、岐阜と京を結ぶ道を高速化されました。琵琶湖には大きな船を用意しましたし、米原市にある摺針峠とか、大津市の近江神宮の脇から京都の北白川に抜けて、比叡山ドライブウェーの取り付け道路になっている山中越えという道も、現代の皆さまにとっては、車酔いでもしそうな曲がりくねった狭い道でございますが、信長さまが「戦国の高速道路」として、当時としては、できるだけ真っ直ぐの通りやすい道として建設されたものでございます。(※3)


▲現在の比叡山ドライブウェー 出典:PIXTA

※1 三好三人衆は、ワンセットで語られることが多いが、三好政康、長逸、岩成友通の3人である。政康は一説によると秀吉・秀頼に仕え大坂夏の陣で戦死。長逸は本願寺と組んで信長に執拗に抵抗したが、最後は消息不明となる。岩成友通は義昭に呼応して信長と戦うなか、淀城で細川藤孝に攻め滅ぼされた。一方、三好長慶の養子の義継は、信長からせっかく河内半国と若江城をもらったのに、義昭を匿って攻められ自害した。三好氏の主君である細川晴元の子の昭元は、信長の妹婿となり落ちぶれながらも天下統一後まで生き延びた。
※2 周防の大内義興は、10代将軍義稙を追い出して将軍となった足利義澄を、京都から「船岡山の戦い」で退け(1511年)、復帰した義稙に管領代になった。だが、尼子氏の台頭で帰国したので(1518年)、天下人にはなれなかった。三好長慶は、将軍義晴と管領細川晴元を京都から追い出して上洛したが、のちに義晴の子である義輝を迎えて、一時的に京都に平和をもたらした。しかし、長慶は晩年、松永久秀や三好三人衆のような奸臣に牛耳られてしまった。
※3 歴史的な志賀街道は、鴨川の荒神橋を渡ったところと近衛通の北から北東に向かった。現在は京都大学のキャンパスに中断されてるが、再開して白河通を越えてから山中越えにつながる。北白川ラジウム温泉を通ると「山中」の集落だが、バイパスが建設された代わりに住民以外の自動車乗り入れは禁止である。壬申の乱の落武者集落が起源で、京都への交通が便利なので子どもたちは特例で京都の近衛中学に通っている。ここから、志賀越は北東に向かい志賀峠を越えて、大津京の背後(西側)に天智天皇が建立し室町時代まであった崇福寺を通り、京阪電鉄石坂線の滋賀里駅付近へ出ていた。  織田信長は、山中の集落から南側の田ノ谷峠へ向かって登り切る短縮ルートを開発した。比叡山系の尾根に達すると左はドライブウェー、右は京都大学の先生などが多く住む比叡平の住宅団地。そして、琵琶湖の絶景を眺めながら急な道を下ると、右側に宇佐山城跡がある。


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