徳川家康は子沢山!実子だけでも16人、養子なども合わせると・・・なんとびっくり41人!!

江戸幕府を開き、天下人となった「徳川家康」。
彼には生涯を通じて2人の正室と20人にも及ぶ側室がいました。
そのため子供もたくさん生まれたわけですが、その数はなんと16人にも及びます。
更に養子も多く迎え入れているため、徳川家康の子供とされた人物は総勢なんと41人とかなりの人数にのぼります。
ここでは、徳川家康の子ども、特に実子たちがどの様な人物だったのかご紹介します。
徳川家康の実子達
年齢層に幅のある徳川家康の子は、男子の中でも合戦に参加したことのある人物、戦場で武名をあげた人物、合戦に参加したことはあるが活躍はしていない人物、そして合戦のない時代に育った人物と様々です。
松平信康
長男【1559年~1579年】母親:正室・築山殿
松平姓を名乗っていた時代の徳川家康、その嫡男として生を受けたのが「松平信康(まつだいら のぶやす)」です。
彼の母親は、徳川家康の当時の主君だった「今川義元」の姪で、徳川家康の正室「築山殿(つきやまどの)」です。
そのため通常ならば、徳川家康の後継者となっている人物ですが、1579年数えで21歳の時に父親の徳川家康から命令を受けて切腹しています。
切腹することになった経緯については多くの説が考えられていますが、今回はその中の一つ『徳川家康・松平信康の不仲説』をご紹介します。
松平信康が生まれたのは、織田信長が台頭するきっかけとなったことで有名な『桶狭間の戦い』の前年です。
徳川家康は当時まだ数えで18歳、満16歳とかなり若い時期です。
若くして父親となった徳川家康ですが、無事に成長すること願って育てていたこともあり、あまり厳しく育てる事もありませんでした。
その結果、松平信康は成長するにつれて苛烈な性格になったとされています。
松平信康が徳川家康の言うことを聞かないようになると父子の仲は次第に険悪となり、最終的には切腹させるほどに至ったというのがこの説です。
松平信康は実際、かなり勇猛な人物で、長篠の戦いを始めとし武田家との戦いでは軍功をいくつもあげています。
また、岡崎城主の役割も任されていましたので、その能力は高かったと考えられています。
それ故に、年の近い父親の事を敬う存在ではなく、ライバルとして見ていたのかもしれません。
結城秀康
次男【1574年~1607年】母親:於万の方
「結城秀康(ゆうきひでやす)」の母親の「於万の方(おまんのかた)」は、元は徳川家康の正室・築山殿に奥女中として仕えていました。
しかし、徳川家康の手付きとなり結城秀康を産んだことで側室となりました。
次男のため、松平信康の死後は徳川家康の後継者になっていてもおかしくないのですが、松平信康の死後の1584年に当時の天下人「豊臣秀吉」の養子とされました。
豊臣秀吉の養子として6年を過ごしましたが、徳川家康が領地を関東に移すに際して、北関東の大名「結城晴朝(ゆうきはるとも)」の姪と婚姻することで結城氏の婿養子となると共に結城氏の所領約11万国と家督を受け継ぎました。
1600年の「関ヶ原の戦い」の後は、越前北庄の68万石と大幅加増と移封をしており、上杉家への抑えとしての役割を任されています。
しかし7年後の1607年に梅毒、もしくは梅毒による衰弱を原因として亡くなってしまいます。
徳川家康からは疎んじられていたとされていますが、それは結城秀康が当時忌み嫌われていた双子として生まれてきたからではないかともされています。
この結城秀康の双子の兄弟とされているのが、愛知県にある神社「知立神社(ちりゅうじんじゃ)」の神主でもあった「永見貞愛(ながみさだちか)」という人物です。
徳川秀忠
三男【1579年~1632年】母親:西郷局
長男の松平信康が切腹して亡くなる5ヶ月前に出生したのが、後に江戸幕府2代目将軍となる「徳川秀忠(とくがわひでただ)」です。
生まれて間もなく長男が亡くなり、幼少期には次男の結城秀康も養子として出ていったので実質の嫡男として育てられていたようです。
結城秀康の母親が正室・築山殿に仕える奥女中だったのに対し、徳川秀忠の母親は三河国の有力な国人の一族で、室町時代には三河守護代を任されたことのある名家『三河西郷氏』の出身というのも後継者として育てられた要因と考えられています。
織田信長の姪にして豊臣秀吉の養女「江」を正室としており、三代将軍となる「徳川家光(とくがわいえみつ)」は江との間に授かった子供です。
生まれたのが戦国時代も終わりの頃だったため、初陣は『関ヶ原の戦い』の前哨戦のひとつとされる『第二次上田合戦』です。
この戦いでは38,000の兵を率いながら2,000人で籠城する上田城を攻め落としきれず、実質大敗を喫したとされます。
更に関ケ原の戦いにも間に合わなかったこともあり、戦下手な人物と評されてきました。
ところが最近の研究では、徳川秀忠の軍勢は元々信州平定の命令を受けて出陣した軍であり、長期戦をする予定だったと考えられています。
そこに急遽、徳川家康の戦略変更の命令が入ったため関ヶ原に向かったため、負けたように見える結果になったとされています。
残念ながら当時から武将としての評価は低かったようですが、逆に為政者としては法の整備や定着させ、江戸幕府の安定化に必要な基礎を固めた人物として高く評価されています。
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