『千日の瑠璃』197日目——私は精液だ。(丸山健二小説連載)
私は精液だ。
若くて、頗る壮健な男の楓爽とした一物から、勢いよくほとばしる精液だ。私は大気中に空しく放出されることも、高級ラテックスの袋に行手を遮られることもない。私は、革張りの椅子にふくよかな裸身を横たえた異性の中核へ向って、さながら暴徒と化した群衆のようにどっとなだれこみ、然るべく造られた、柔らかくて深くてみだらな器官に迎え入れられる。だが、残念ながら本来の目的を遂げることはできない。機運が至らなくて新しい命に点火できず、ただ満ち溢れただけで、あとは潮のように引いてゆくしかない。
私を荒々しく発射したそれは、すでに我関せずとばかりに萎えており、まもなく私を置き去りにして日常へと去って行く。強力な後ろ盾を失ってしまった私は、今度は子宮の気勢に押されて、すべて理屈で割り切れそうな光の世界へと流れ出て行く。床の上にだらしなく滴り落ちた私は、そのための紙に拭われ、吸い取られてゆく。女は愚問を発しつづけ、男はというと明答を避けつづけている。
それから私は、紙といっしょに無造作に窓の外へ放り出される。春の突風に吹き飛ばされてゆく私は、死の悪臭を放ちながらも、この世に在ることを束の間嬉しく思い、やがて湖の辺りに並べられたベンチに横たわって眠りこけている少年の顔の上にふわりと舞い降りる。私はその病める少年にそっと呟く。「おまえは生まれてこないほうがよかったな」
(4・15・土)
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