『千日の瑠璃』196日目——私はたも網だ。(丸山健二小説連載)

 

私はたも網だ。

産卵のために岸辺へ寄ってくるワカサギを掬い取るには目が粗過ぎる、たも網だ。そのことに気づかない少年世一は、波が運んでくる銀色の魚影を見つけるたびに、性懲りもなく私をさっと繰り出す。しかし私に掬えるのは、水草の切れっ端と光の針くらいなものだ。それでも世一の狩猟本能は充分に満たされており、彼の胸のうちでぴちぴちと跳ねる銀鱗は次第に増えて、幸福の青い風を差し招く。

私としては、どんな雑魚でもいいから一匹くらいは捕えてみたい。だが、ウグイはすばしこく、今年の餌場を決めようと岸に沿って洄游を始めた野鯉は警戒心が強過ぎる。世一は雪融けの水でかじかんでしまった手に熱い息を吹きかけながら、しばし放心状態に陥っている。そうこうしているうちに私は、私たちの跡をこっそりとつけてくる巨大な黒い影を発見する。世一はまだ気づいていないようだが、それはきっとうたかた湖の主といわれているあの化け物鯉に違いない。

そいつはまほろ町にある最大の投網にもおさまり切れぬほどでかく、ボートほどもある。やがて感づいた世一は、驚いて一瞬棒立ちになる。ついで世一は横手を打って感心し、無理だと私がとめるのもきかずに、私をそいつの方へそろそろと突き出してゆく。世一を見つめる巨鯉の眼づかいはあくまで優しく、慈愛に満ち満ちており、私が触れてもじっとその場を動かない。わが生涯最良の日だ。
(4・14・金)

丸山健二×ガジェット通信

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