『千日の瑠璃』74日目——私は虚無だ。(丸山健二小説連載)
私は虚無だ。
泥にまみれた雪のなかに潜んで、虎視耽々と襲撃の機を窺う、一点の瑕疵もない虚無だ。私は日の出早々活動を開始する。陽光、風向き、気温といった外的な条件にはまったく左右されないで、一気にまほろ町へと飛び出す。私が狙う相手は決して見棄てられた者や、度重なる不幸に言葉もなく立ち竦む者や、重大な違算をして行く末を思い巡らす者などではない。不用意に生きている者、幸福に馴れ親しんだ者、価値ある一時に潜心する者、常に先見ある行動をとれる者、存分に才腕を発揮できる者、私の餌食となるのはかれらだ。
私は黄金色の光をいっぱいに浴びて、もしかするとこの世を裁くことができるかもしれぬ少年世一と共に丘を下り、冬が狭めてしまったあちこちの通りを流して歩き、建ち並ぶ家々を片っ端から覗きこむ。そして、旭日に向ってぱんぱんと柏手を打つ矍鑠たる老人には、そういつまでも気楽にはしていられないことを仄めかす。ついで、生気に満ち溢れた自信たっぷりの妊婦に後ろから抱きついて、母子ともどもしたたかなその心に動揺を与えてやる。それから、該博な知識を用いて即座に苦悩を追い払うことができる、人品卑しからぬ人物をつかまえ、その胸元に否定の刃物を擬し、本当にそれでいいのか、と詰め寄る。しっぽを巻いて退散するかれらに私は尚も追い討ちをかけ、世一はかれらの背中に「ああ、ああ」という労しい声を浴びせる。
(12・13・火)
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