名作映画から考えるスクールカーストという“監獄”

相次ぐイジメ問題とそれに関する報道により、注目・議論されるようになってきたが、学校というのはとにかく閉鎖的な空間である。そして、閉鎖的で密度の濃い世界では、その空間独特の価値観や秩序が生まれやすい。

学校やクラスもまた、大人の世界と同様に、序列があり、支配や競争や摩擦があり、目には見えないルールがある。学生たちは、容姿や対人能力、ファッションセンス、運動能力、趣味などを基準に格付けされ、それによってクラスにおける“身分”が決まる。このような状態を、インドなどにあった身分制度であるカースト制度になぞらえ、スクールカーストと呼ぶ。
スクールカーストという言葉を知らなかった人でも、クラス内での格付けやランク付け、そしてそれが生み出す息苦しさや上下関係には、覚えがあるのではないだろうか。

2006年にオーストラリアで公開された映画『明日、君がいない』(原題『2:37』)。
同年のカンヌ国際映画祭で上映され高い評価を得たこの作品は、スクールカーストの残酷さや救いのなさを、生々しく描いている。
オーストラリアの高校を舞台に、高校生たちのとある一日が描かれる。この作品に登場する高校生たちは皆、それぞれに悩みや苦しみを抱えている。恋愛、身体障害、いじめ、薬物、家庭の不和、妊娠……。どうすることも出来ず、相談できる相手もいない。誰もが押し潰されそうになっている。そして午後2時37分、ついに誰かが自殺を図る……。

それぞれの悩みはあくまでも個別のものであり、スクールカーストと直結しているわけではない。ただやはり、重要な背景の一つとして、スクールカーストは機能している。自分の立場を誇示するように、今の身分から蹴落とされないように、主流派から外れないように、彼らは振る舞う。何らかの理由で“低い身分”となってしまった者たちは、惨めな扱いを受けている。

スクールカーストは、誰も幸福にしない。登場人物の一人は、スポーツ万能で人を引き付ける力も持っており、トップグループに属している。恋人もいるし、悪友たちと一緒に、移民の学生や障害を抱えた学生をからかい、嘲笑う。まさに王様のように振る舞っている。しかし物語が進むにつれ、彼もまた、深い悩みを抱えていることが分かってくる。誰にも悩みを打ち明けられないのは、それが露見すれば、今の自分の地位が危うくなるからだろう。高い地位に属していても、必ずしも安泰ではないのだ。スクールカーストという監獄からは、決して逃れられない。

この作品には、爽快なカタルシスも、大団円もない。最後まで救いはなく、どこまでも重く、暗い映画だ。だけど私は、10代が抱える痛みや切なさを丁寧に描いたこの作品が、大好きだ。

19歳の時にこの映画をつくったムラーリ・K・タルリ監督も、生きづらさを抱えた10代の一人だった。親友の自殺、そして自身の自殺未遂が、この映画をつくるキッカケだったという。深い苦しみや悲しみを乗り越えた者は、それを糧にして、このような美しい作品を作りうる。そして私たちも、作品は作れないかもしれないが、人の痛みや苦しみを感じ取れる人間にはなれる。
それが、この作品が示してくれる唯一の希望なのかもしれない。

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