胃がきりきりと痛くなるスリラー『ザ・チェーン 連鎖誘拐』

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胃がきりきりと痛くなるスリラー『ザ・チェーン 連鎖誘拐』

 もっとも卑劣な犯罪の、さらに卑劣な形。

 エイドリアン・マッキンティ『ザ・チェーン 連鎖誘拐』(ハヤカワ・ミステリ文庫)の上巻を読んでいて、思わず物語に打ちのめされそうになった。あまりそんなことはないのだが、子を持つ親には、これは辛い小説だ。辛いがおもしろい。おもしろいが辛い。打ちのめされつつも、ページをめくる。

 話は、カイリーという少女がスクールバスの停留所で誘拐される場面から始まる。彼女を車に押し込んだのは男女の二人組だ。スピード違反で車を停めさせた警官が、後部座席にいるカイリーの様子がおかしいことに気づくと、瞬時も迷うことなく発砲する。つまり、手段を選ばないというやつだ。だが、その目的とは何か。

 カイリーの母親、レイチェル・クラインの携帯電話に着信がある。誘拐犯からだ。電話をかけてきたのは女だった。その要求は二つ。一つは二万五千ドルのビットコインを指定のビットコイン口座に送金すること。もう一つはもっと大変な要求だ。女は言う。

「わたしはこう伝えることになってる。あなたは最初でもなければ最後でもない。あなたは〈チェーン〉の一部で、これが始まったのはずっと昔のこと。わたしがあなたの娘を誘拐したのは、そうすれば息子を解放してもらえるから。息子はわたしの知らない男女に誘拐されて、監禁されている。あなたは標的を選んで、その家族をひとり誘拐して、〈チェーン〉を継続させなくてはいけない」

 誘拐犯の要求は、誘拐犯になることなのだ。子供を助けたければ、魂を売り渡して自分も卑劣極まりない重罪犯にならなければいけない。そして絶対に失敗してもいけない。〈チェーン〉というシステムを危機に晒すことになるからだ。もしレイチェルが失敗すれば、正体不明の誘拐犯はカイリーを殺し、別の標的を捜しに行くだろう。こうして犯行が永遠に連鎖していく。自己生成する犯罪のシステム、それが〈チェーン〉なのである。

 もし自分がレイチェルと同じ立場に置かれたら、と考えてみていただきたい。同じことをするだろうか。我が子を助けるために、他人の家族を犠牲にするだろうか。犯罪者に屈してはいけない、そう言って毅然とした態度をとり、警察に連絡するだろうか。この問いに答えることは容易ではないだろう。よく考えてみてもらいたい。考えれば考えるほど、物狂おしい気持ちになっていくはずだ。良心を蝕み、嘲笑う。一人でも多く犠牲者を増やし、力で支配する。純粋の悪意というものがあるとすれば、それは〈チェーン〉を作り出した者の中に存在するのだろう。

 遠隔操作によって成り立つシステムだから、これを実行するとなるとさまざまな問題が起きそうだ。予測不能な事態が生じることもあるだろう。実際、レイチェルの前にもいくつかの障壁が立ちはだかる。それを乗り越えなければ、娘を取り戻すことはできないのだ。リスクは〈チェーン〉の設計者ではなく、常にそれを押しつけられた側が負うことになる。

 上巻では苦難に満ちた彼女の行動が描かれていく。人物設定も残酷で、レイチェルは抗癌剤治療を終えた後でようやく再就職して社会復帰できるところだったのである。医師から、検査の結果不審な点があるので来院してもらいたい、と連絡を受けても応えることができない。ああ、彼女の健康状態が心配だ。レイチェルが協力を仰ぐことになるピートも、薬物の問題を抱えていてときおり心が折れそうになる。そうした不安定な状態で、困難極まりない課題を達成しなければならなくなる話なのである。舗装されていない道で大八車を引いてニトログリセリンを運べと言われたら、こんな気持ちになるのだろうか。

 物語は二部構成になっていて、第一部がどん底編、第二部が逆風編というべきか。ここまで読んでもらったらわかるとおり、半端ではない絶望感のある小説だが、ミステリーなので後半には謎解きがある。防護壁を作って絶対的な安全圏にいようとする犯人とどうやって闘うか、という話になるので前半とはまた別のスリルが楽しめるはずだ。

 本書でいちばん辛いのは、第二部の最初ではないかと思う。ネタばらしになってしまうので書けないが、魂が死んでしまうというのはこういう状況のことを言うのではないかと思う。ここを書く、というのがおそらくは作者にとって最大の挑戦だったのではないか。誘拐を主題にした作品だからこその展開であり、犯罪小説の醍醐味を感じた。

 以下は余談。ご存じのとおりエイドリアン・マッキンティはアイルランドを舞台にした警察小説のショーン・ダフィ・シリーズで世に出た人だが、あまりにも小説書きが儲からないので一時廃業してUberの運転手に転職していたらしい。その才能を惜しんだドン・ウィンズロウが、自分のエージェントを紹介して作家に復帰させた第一作が本書ということになる。それまでの舞台だったアイルランドを離れてアメリカを舞台にしているのも、たぶんそのエージェントの勧めだ。多くの読者を獲得したかったらアメリカの小説を、ということだろう。おかげでベストセラー作家の座に就けたわけで、ここからどんな犯罪小説を書いてくれるのか、楽しみである。願わくば本書のように、胃がきりきりと痛くなるようなスリラーを。

(杉江松恋)

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