“ジョニ・ミッチェル”という新たなジャンルを確立した『逃避行』

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ジョニ・ミッチェルは恋多き女性として、レナード・コーエン(カナダの作家・ミュージシャン)、デビッド・クロスビーとグレアム・ナッシュ(ふたりともCSN&Y)、ジェームス・テイラー、ジョン・ゲラン(L.A・エクスプレス)、サム・シェパード(劇作家・俳優)、ジャコ・パストリアス(ウェザー・リポート)ら大物アーティストたちとの交際がよく知られている。CSN&Yの音楽はジョニの自己流ギター変則チューニングがなければ生まれ得なかったものであり、ジャコのベースプレイやゲランのドラミングなどにも、彼女の助言が大いに役立ったであろうことは容易に想像できる。逆にジョニの私小説的な歌の内容は、彼らのことについて語られているものが多い。彼女が恋をするたびに相手の才能が開花するだけでなく、ジョニの音楽にも大きな影響を与えるという、いわばウィンウィンの関係になっているのが面白いところ。
 (okmusic UP's)“魔性の女”と人は言うが…

ジョニ・ミッチェルの歩み

デビューアルバムの『ジョニ・ミッチェル(原題:Song to a Seagull )』(‘68)から5thアルバムの『バラにおくる』(’72)までの作品は、複雑なコード進行や実験的な音世界は見られるものの、所謂フォークをバックボーンにしたシンガーソングライター的なサウンドを持つ。アサイラム・レコード移籍第1作になる『バラにおくる(原題:For the Roses)』に収録された「Judgement of the Moon and Stars(Ludwig’s Tune)」では、少しだけジャズ的なアレンジが見られ、その部分を広げるべきだと考えたジョニは、このアルバム以降なじみのロック系ミュージシャンではなく、ジャズ系ミュージシャンにサポートを任せることになった。

6作目の『コート・アンド・スパーク』(‘74)は、トム・スコット率いるL.A・エクスプレスと、クルセイダーズのメンバーが参加、彼女の念願だったジャズ系のミュージシャンがバックを務めるようになり、西海岸産としてはまだ目新しかったフュージョン的なサウンドに変化していく。当時は、まだフュージョンというジャンルは存在せず、アレサ・フランクリン、スティーリー・ダン、ジェームス・テイラー、それとニューソウルの一連のアーティストらが、都会的なスタイルに取り組み始めた頃であったと記憶している。自分の音楽を追求することが、ポピュラー音楽の新ジャンル成立に関わるほどだから、ジョニの創造する音楽がどれほど革命的なものかが分かる。この『コート・アンド・スパーク』は、フォークロックのテイストを残しながらも、都会的でジャジーなスタイルを創りあげることに見事に成功した作品(全米チャートで2位)となる。
ジョニ・ミッチェルが 影響を与えたアーティスト

彼女の音楽に影響を受けたアーティストは、ロック界ではレッド・ツェッペリン(ジミー・ペイジとロバート・プラントは「ゴーイン・トゥ・カリフォルニア」で彼女を賛美している)、マドンナ(ジョニの『コート・アンド・スパーク』の歌詞を全部覚えていると語っている)、プリンス(「ドロシー・パーカーのバラード」でジョニの曲を引用している)、ソニック・ユース(「ヘイ、ジョニ」という曲がある)らがいる。また、ジミー・ペイジとサーストン・ムーア(ソニック・ユース)の変則チューニングはジョニにインスパイアされたものである。他にもアラニス・モリセット、ビョーク、アニー・レノックス、ミッシェル・ブランチ、サラ・マクラクラン、テイラー・スイフトなど枚挙にいとまがない。

ジョニの変則チューニングは、幼少期の病気によって左手の握力が低かったからやむなく考案したものであったらしい。曲によって使うチューニングが50種類ぐらいあるそうだ。
多忙な1974~75年の活動

1974年はジョニにとって大忙しの年になった。『コート・アンド・スパーク』のヒットを受け、国内ツアー(1月~4月、7月末~9月中旬)を大々的に行ない、ツアーを通して彼女はジャズ/フュージョン的なスタンスを身につけていく。このツアーでバックを務めたのはトム・スコット&L.A・エクスプレスの面々で、7枚目となる2枚組ライヴアルバム『マイルズ・オブ・アイルズ』(’74)はこのツアーのドキュメントである。この作品を聴くと、シンガーソングライターとして括られていた頃とは違う次元に突入したことが分かる。

75年は3月にグラミー賞の受賞(『コート・アンド・スパーク』の「Down to You」で編曲賞)があり、11月~12月にかけては、ジョーン・バエズ、ロジャー・マッギン(ザ・バーズ)、サム・シェパードやその他大勢とボブ・ディランのローリング・サンダー・レヴューに参加し、かつてのフォーク仲間たちと旧交を温めた。この時期は忙しかったはずだが、その間を縫って前作に参加したメンバーたちと『夏草の誘い(原題:The Hissing of Summer Lawns)』(‘75)を制作している。
ジャコ・パストリアスの参加

1976年初頭から前年と同じメンバーでツアーがスタートする。彼女は次作の曲を移動中に書き上げなければならなかったために、ピアノではなくほぼギターで創作することを余儀なくされている。そんな中、ジョニにとって理想とも言える凄腕のベーシストが現れる。ジャコ・パストリアスだ。74年にデビューしたばかりのジャコだが、フレットレスベースを使ったその革新的なプレイは、ジョニの求めていた新しい音であった。その後、彼は薬物の影響によって精神を病み、35歳の若さでケンカが元であっけなく亡くなってしまう。しかし、ジャコがジョニの音楽に大きな貢献をしたことは間違いない。彼は『逃避行』(‘76)『ドンファンのじゃじゃ馬娘(原題:Don Juan’s Reckless Daughter)』(’77)、『ミンガス』(‘78)などの作品に痕跡を残している。
本作『逃避行』について

彼女がジャコを“発見”した時、すでに新作となる本作『逃避行』の基本的な部分の録音は終わっていた。しかし、ジョニはどうしてもジャコに参加してもらいたくて、「コヨーテ」「逃避行(原題:Hejira)」「黒いカラス(原題:Black Crow)」「旅はなぐさめ(原題:Refuge of the Roads)」の4曲について、ジャコのベースをオーバーダビングすることにした。そして、その効果は間違いなく大きかった。ジャコのベースは彼女の歌に寄り添うように鳴り、曲に繊細な陰影を付けている。

収録曲は全部で9曲。ジョニ・ミッチェルの代表作と言うに相応しい充実した楽曲群であり、ポップ性と芸術性がうまく溶け込んでいる。ザ・バンドの解散コンサート「ラストワルツ」でも歌われた1曲目の「コヨーテ」から「旅はなぐさめ」まで、重厚でハイレベルの音楽性が提示されている。どの曲も歌詞の詰まり方が半端なく多いのは、デビュー時からのジョニ・ミッチェルの端的なスタイルである。一見シンプルのようでいて聴き込むほどに多層的に感じるのは、彼女が描く絵画の作風に似ているかもしれない。「旅はなぐさめ」でのジャコのプレイは紛れもなく名演である。

本作からシングルヒットは生まれなかったが、この作品がジョニ・ミッチェルの新たなスタートとなったことは確かである。そして、本作の後に続く2枚組の大作『ドンファンのじゃじゃ馬娘』(‘77)と『ミンガス』(’79)は『逃避行』からのスタイルを踏襲しているので、3部作という扱いでも良いかもしれない。この後、80年代に入ると彼女の音楽はまた違う方向へと進んでいくのだが、そのあたりはまた別の機会に…。
TEXT:河崎直人
アルバム『Hejira』
1976年発表作品

<収録曲>

1. コヨーテ/Coyote

2. アメリア/Amelia

3. ファリー・シングス・ザ・ブルース/Furry Sings the Blues

4. ストレンジ・ボーイ/A Strange Boy

5. 逃避行/Hejira

6. シャロンへの歌/Song for Sharon

7. 黒いカラス/Black Crow

8. ブルー・モーテル・ルーム/Blue Motel Room

9. 旅はなぐさめ/Refuge of the Roads
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