破天荒で壮絶な人生を駆け巡った戦国時代の武将「松永久秀」:その1

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「魔王」と恐れられた織田信長。その信長が家康に紹介するとき、「この男は、常人にはできない、天下の大罪を三つも犯した」といわれた男がいます。

その名は松永久秀(まつなが ひさひで)(別名:松永弾正)。

1867年に落合芳幾によって描かれた松永久秀(「太平記英勇伝十四:松永弾正久秀」)かなり破天荒な生涯を送ったと考えられている。

久秀は畿内などを支配した三好長慶の家臣として活躍し、信貴山城を居城として大和を支配しました。1561年には現在の奈良市の辺りに多聞山城を築きます。

日本において天守閣を持つ城は、この多聞山城が初めてとされています。壁は白壁、屋根は瓦葺で石垣も用いられ、のちに「多聞櫓」といわれる造りの四階建ての櫓もありました。

やがて、三好一族に不幸が次々と降りかかります。長慶の弟である十河一存が多聞山城築城の同年に病死。翌年にはその弟の三好実休が戦死。さらに1563年、長慶の嫡男である三好義興も22歳の若さで病死。その後、長慶は弟の安宅冬康を謀叛の疑いで殺害。2か月後に長慶自身も病死します。

十河一存や義興の死、安宅冬康の一件などは久秀が関係しているのではないかと噂されています。確かに、立て続いた不幸がすべて久秀の陰謀ととらえるのは無理があるかもしれません。ところが、長慶を孤立するように仕向けて死に追いやったと見た人は当時も一定数いたようです。

長慶の死後、養子である三好義継が14歳の若さで家督を継ぎますが、政治の実権は久秀が掌握。京都・奈良・堺という関西の主要都市を手中に収めてしまいます。

長慶の死をきっかけに、弱体化していた室町幕府第13代将軍の足利義輝が権力を復活させようとしますが、義継と、久秀の嫡男・松永久通、そして三好三人衆(三好長晩・三好政康・岩成友通)らが京に攻め入り、義輝を殺害。宣教師のルイス・フロイスは、『日本史』にて、「この事件の首謀者は久秀」と書き残しています。

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参考:海音寺 潮五郎『悪人列伝 近世篇』

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