1泊2日の温泉旅小説。「伊香保温泉街」でカクテルを楽しむ
彼に旅行をすっぽかされ、ひとりで伊香保温泉を訪れた私は、日本初の女性バーテンダーのいる宿「千明仁泉亭(ちぎらじんせんてい)」に宿泊する。そこで、自転車で旅する不思議な青年と出会いーー。
温泉あり、グルメあり、ひとりでゆったりと過ごす伊香保温泉1泊2日の旅を『メゾン刻の湯』などで人気の小説家・小野美由紀さんが小説仕立てでお届けします。
※当記事は、実在する列車、観光地、旅館、食事処を舞台にしたフィクションです。
【行程】
東京から約2時間。文豪も愛した温泉街へ
都会の喧騒を忘れ、レトロな温泉宿でひと息
ひとりの時間を味わう、のんびりカフェタイム
ディナーでは滋養あふれる地元のグルメを
日本初の女性バーテンダーと四季のカクテル
伊香保神社で縁結び。新鮮な運気を呼び込む
東京から約2時間。文豪も愛した温泉街へ
「日本初の女性バーテンダーのいる宿? 」
「そう、伊香保にあるの。そこに泊まってもいい? 」
時間がたつにつれ、だんだん空の面積が増えゆく車窓からの風景を眺めながら私はため息をついた。
ぽっかりと空いた2人掛けの隣の席は、どことなく白々しい。
伊香保に行こう、と言いだしたのは彼の方だ。
けど、いつものように旅程も宿もすべて決めてしまおうとする彼に、どうしてもここに行きたい、と「千明仁泉亭」を推したのは私だった。
大正〜昭和初期の木造建築に、湯量の豊富な天然掛け流しの温泉。
室町時代から500年も続く老舗旅館であり、併設のバーには日本で女性初のマイスター・バーテンダーである上田尉江(うえだやすえ)さんが勤める。
「この人に会ってみたい」
ーー雑誌の特集でそれを知った時から、私はこの宿の存在を忘れられずにいたのだ。
「80歳になるバーテンダー……って。シェーカー振れんのかよ」
それを告げた時の、彼の反応はそのようなものだった。
「東京にだって良い店はあるわけだろ。わざわざ行くほどの場所とも、俺は思えないけど」
そう言った男は、今朝になって突然、仕事で行けなくなった、と言いだした。
「せっかくだし、お前ひとりで楽しんでこいよ」
付き合い始めて2年。仕事で忙しい彼にいつも合わせてきた。今回の宿だって、初めての自分からのリクエストだったのだ。
高崎名物「だるま弁当」。車内では販売しておらず、東京駅から乗車する場合は、東京駅の弁当店「祭」で購入可能
JR東京駅から上越新幹線で約55分。群馬県のJR高崎駅で上越線に乗り換えて約25分。あっという間に伊香保温泉街の最寄りのJR渋川駅だ。
駅のコンビニの前で、不思議な青年に話しかけられた。
「あのう、すみません。伊香保石段街ってどちらですか」
大きなリュックを背負い、脇には空色のロードバイクが立てかけてある。
私にだって分かる筈がない。
困っていると、店員さんが親切に教えてくれた。
青年は頭を下げると、軽やかに自転車にまたがり去って行った。
少し考えれば、大きな旅行鞄を抱えた私が地元の人間でないことは明らかである。
「変な人。スマホで検索すればいいのに」
都会の喧騒を忘れ、レトロな温泉宿でひと息
関越交通バスに揺られて約30分。
細い道を抜ければ、有名な伊香保の石段街が顔をあらわす。
「すごい!」
両脇にはお土産物店や饅頭店、遊技場がずらり
タイムスリップしたようなレトロな石畳が、はるか上の方まで続いている。ずっと見上げていると、首が痛くなりそうだ。
無料で浸かれる足湯は、たくさんの人でにぎわっている
その中でもひときわ情緒あふれる建物が、今回の目的地である「千明仁泉亭」だ。
石段街の中腹にあり、アクセスが便利 お部屋は、こぢんまりとしながらも居心地がいい。美しい襖絵が見事館内には随所に、季節の活け花があしらわれている
大正時代から引き継がれている建物は、柱や梁が美しく磨かれ、古いながらもこまやかに手を入れられていることがすぐにわかる。
荷物を置き、一息ついた私は早速温泉に向かうことにした。
湯船は4種類。露天や大浴場はもちろん、24時間利用可能な貸切風呂は一浴の価値あり滝湯のある大浴場のほか、立ち上がれば伊香保の街を一望できる露天風呂も
「こんな広いお風呂を独り占めできるなんて、夢みたい!」
ゆっくりと、鉄分の豊富な黄金色の湯に浸かる。
都会で過ごすうち、いつしか骨身に堆積していた疲労が、掛け流しの湯に溶け出してゆく。
(彼も来ればよかったのに……)
ひとりの時間を味わう、のんびりカフェタイム
ひとっ風呂浴びた後は、併設の「楽水楽山」へ。夜にはバーへと様変わりする、落ち着いた雰囲気のカフェだ。
美しい木造白壁塗りの建物。靴を脱いでくつろげるソファ席もある
この宿には明治の文豪「徳冨蘆花(とくとみろか)」が定宿とした歴史がある。それ以外にも、伊香保は夏目漱石や竹久夢二、与謝野晶子などが好んで訪れたことで有名な場所だ。
それにちなみ、のんびりと読書をして過ごすことにした。
人気のカフェメニュー「抹茶の米粉シフォンケーキ」
バターの代わりにココナツオイルを使用したケーキはふんわり、しっとり。
東毛酪農の低温殺菌牛乳でその日に立てた濃厚な生クリームと、塩味の効いたこしあんがベストマッチだ。濃い口のコーヒーにもとても良く合う。
「こんなに美味しいの、東京では食べられないかも!」
こんなふうにゆっくりと休日をひとりで過ごすのはいつぶりだろう。
マイペースでアクティブな彼にあちこち連れ回され、最近は自分なりに過ごす時間をほとんど取れずにいた。
けど、彼と付き合う前の私は、本当はこうしてのんびりと過ごす方が好きだったのだ。
ディナーでは滋養あふれる地元のグルメを
豆乳のスープ、群馬の最高級ニジマス「ギンヒカリ」など、ここでしか味わえない逸品がたくさん
夕食は部屋で提供される。下仁田ネギや伊香保名物の「段々豆腐」など、地元の食材が豊富に楽しめる。派手さはないものの、一品一品が丁寧に作られ、時間をかけて味わいたくなるものばかりだ。
赤城牛のすき焼き。お肉が新鮮で濃厚な味わい
日本初の女性バーテンダーと四季のカクテル
夕食を終え、いよいよバータイムの「楽水楽山」へ。
夜になると照明を落とし、ぐっと落ち着いた雰囲気に
「いらっしゃいませ」
バータイムは上田さんがひとりで切り盛りしている
飴色の照明に囲まれた、程よい大きさのカウンターの中に、その人はいた。
すっきりと背筋の伸びた立ち姿は、とても80歳前後とは思えない。
眼鏡の奥の瞳は、職人らしい涼やかさをたたえている。
「おすすめのカクテルは『伊香保の四季』です」
せっかくなので「四季」をすべて味わうことにした。どうせあとは寝るだけだ。ここでしか味わえないものを堪能しよう。
うきうきするようなピンクのスパークリングカクテル「伊香保の桜」シャトルリューズ(薬草のリキュール)を使ったすっきり爽やかな「伊香保の初夏」
上田さんは20代の中盤から酒の道に入り、兄弟子だった旦那さんと二度目の結婚をして、銀座7丁目にバー「ひみこ」 をオープンさせた。運悪く火災で全焼してしまったが、上田さんに信頼を寄せるバーテンダー仲間は多く、彼らの協力もあってわずか3カ月後には銀座8丁目に再オープンさせたのだそうだ。
旦那さんに先立たれた後は、学生時代からの付き合いであるこの宿のオーナーの誘いに乗って伊香保に移り住み、以降14年、この店に立ち続けている。
「ご主人を亡くされても、バーを続けていたなんてすごいですね」と言うと
「逆です。主人を亡くさなかったら、私はここまでカクテルを極めることはなかったかもしれない。だって、全部ひとりでやらなきゃならなかったんだもの」
と上田さんはこともなげに答えた。
ひとりってかっこいい。
本当は私は、彼と付き合い始めてから、ひとりで行動することに、どこかためらいがあったのだ。
彼の誘いに 「No」 と言うことに、ひとりの時間を選ぶことに、なんとなく後ろめたいような、何かが欠けているような気持ちがあった。
けど、上田さんがたったひとりでカウンターに立つことを選ばなかったら、こんなに美味しいカクテルは生まれなかったのだ。
その時、から、とドアの音がして、誰かが入ってきた。
駅で会った青年だった。
あ、と声を出し、その途端に恥ずかしくなる。
今の私はメイクも落とし、髪も洗いざらしだ。駅で会った相手だとは気づかないかもしれない。
なのに、青年は話しかけてきた。
「さっきの!」
青年はグラスホッパーを頼むと、待てないと言うように切り出した。
「上田さんに会いたくて、ここまで来たんです」
年は2つ3つ、下だろうか。横顔は隣に座る私の目線より、少し高い位置にある。
「僕の母はバーテンダーだったんです。その理由が、上田さんに会ったからだったんですって。若い頃にバイクでぶらっと東京に来て、『ひみこ』 で上田さんのカクテルを飲んで。……離婚してひとりになって、どうせならやりたい仕事をやろう、と思った時に上田さんのことを思い出して、一念発起してバー勤めを始めたんだって」
「ずいぶんかっこいいお母さんですね」
青年は目を細める。
「再び東京のお店を訪ねることは叶わなかったんですけど、伊香保にもずっと来たいと言っていました」
上田さんは静かに微笑んでいる。
日本で初めて女性バーテンダーの扉を開いた上田さんの背中は、きっと多くの人を育ててきたのだろう。
ヨーグルトリキュールとブルーキュラソーで、湖水のように澄んだ風情の「榛名湖の雪」
青年はカクテルを飲みながら聞く。
「もしも若い時の母が……バーテンダーになりたての母が上田さんを訪ねて来ていたら、なんと言いましたか?」
「そうね」
少し考えてから、上田さんは言った。
「とにかく、自分に誠実でいること」
伊香保神社で縁結び。新鮮な運気を呼び込む
翌日、チェックアウトしてから私は石段街の最上部にある伊香保神社に向かった。
石段は全部で365段ある。途中には干支が刻まれたタイルがあり、探してみるのも楽しい
長い長い石段をふうふう言いながら登る。運動に慣れていない身には、結構キツい。けど、ヒールを脱ぎ捨て、スニーカーで踏みしめる石段の感触は新鮮で、夢中で私は上を目指した。
「着いた!」
こぢんまりとしてはいるものの、石段の頂上だけあり、どことなく清涼な雰囲気が漂う
手を合わせていると、後ろに気配を感じた。
昨日の青年だった。
「また会いましたね」
そう声をかけると、彼は訳知り顔ではにかんだ。
「昨日、『明日行ってみようかな』 って言ってたから」
青年は昨夜、グラスホッパーを飲み干すと
「いけね、うちの宿、オンボロだから門限があるんだ」と言い、そそくさと会計を済ませて立ち去ったのだ。名前も言わずに。
私の隣は、またぽっかりと空席になった。
「母が昔、バイクで日本中を旅したらしいんです。……だから、僕もひとりで旅しようと思って、自転車で。その頃みたいに、紙の地図だけで」
(だから、駅で私に道を聞いたんだ……)
「強い女だったんです。上田さんに憧れるのもわかるなあ」
だった、の意味を問う前に、彼は1枚のカードを差し出してきた。
これ、と渡されたのはショップのカードだった。
「僕、ここで美容師やってます。よかったら1度来てください」
私はもう、長いこと同じ店で髪を切っている。ヘアサロンを替える予定は特にない。
そう言おうとした時、彼は一足早く
「絶対に満足させますよ」
と言い切り、朝日のような笑顔を見せた。
名物の「あがり餅」。こっくりとしたごま餡が柔らかな餅生地によく合う。自家製の林檎を使ったアップルパイも美味(※あがり餅は、ごま餡のほか、こし餡を使ったものも有り)
こうして私の1泊2日の旅は終わった。
西日の差し込む帰りの上越線の中、リラックスして足を伸ばす。
隣の空席ももう、気にはならない。
(ヘアサロンを替えるのも、悪くはないかもしれないな)
そう思いながら、私は青年の名刺を取り出し、スマホで店名を軽快にタップした。
※当記事は、実在する観光地や旅館などを舞台にしたフィクションです。「千明仁泉亭」での宿泊は、2名からとなります。
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