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マフディーの反乱 – 英国を動揺させたスーダンの大反乱(歴ログ -世界史専門ブログ-)

対外戦役の停滞

しかし1889年を境に対外戦役は停滞するようになります。

ヒックス率いるエジプト軍を壊滅させた将軍ネジューミー率いるエジプト遠征軍が1889年8月にエジプト軍に惨敗し、部隊がほぼ壊滅。ネジューミーも討ち取られてしまいます。

紅海沿岸ではイギリス軍に拠点を奪われ、エチオピア軍も体制を立て直し攻勢に打って出、エリトリアを植民地とするイタリア軍からも攻撃を受け東部の要衝カッサラが陥落しました。

度重なる戦役に人々の間に疲労感が高まり、戦死で人口が減った他働き手が減ったことで経済は停滞。アブドゥッラーヒの出身部族ばかりが優遇される不公平な体制にも不満が相次ぎ有力部族が次々と反旗を翻す。さらには疫病が蔓延し人口も1/4程度にまで減少してしまいました。

一方イギリスでは、保守党のソールベリー内閣成立後、スーダン情勢の一刻も早い安定化を求める声が上がっていました。列強によるアフリカ分割のフロンティアであるスーダンは各国がその領有を狙っており、フランスはコンゴから、イタリアはエリトリアからスーダンへの侵攻を画策していました。ナイル川の上流を敵対勢力に抑えられては困るイギリスは、本格的なスーダン介入に乗り出すことになります。

オムドゥルマンの戦い

イギリス・エジプト連合軍を率いるのは、後に第一次世界大戦時に陸軍大臣を務めることになるホレイショ・キッチナー将軍。

ホレイショ・キッチナー将軍

工兵出身のキッチナーは、早急な軍の展開を避けて鉄道を敷設して補給路を確保しながらジリジリと詰めていく戦略を採りました。

マフディー軍は展開する敵軍に対するゲリラ戦は得意だが、このように時間をじっくりかけられる慎重な攻めは苦手。有効な手が打てず、内紛の不安を抱え、国力は疲弊し兵の士気も上がらない。しかも兵器は老朽化しており、とてもイギリス軍のマシンガンや駐退機付きの大砲などの最新兵器には対抗できなくなっていました。

1889年4月、イギリス軍の鉄道がヌブア砂漠に到達したことを知ったアブドゥッラーヒは、急遽1万9,000の軍勢を北上させます。アトバラの地で両軍が激突し、マフディー軍は惨敗。イギリス・エジプト軍の死者が100人未満だったにも関わらず、マフディー軍は約3,000もの死者を出し、アブドゥッラーヒの甥マフムード・アフマドも捕虜となりました。

▽アトバラの戦い

アトバラの戦い

キッチナー率いるイギリス・エジプト軍はさらに南下を続け、首都オムドゥルマンの北方10キロの地点に到達。

祖国防衛の最後の戦いと位置付けるマフディー軍は、総勢52,000の大軍でキッチナー軍に総突撃をかけました。

これに対しイギリス・エジプト連合軍は、歩兵と砲兵による一斉射撃と、ナイル川に停泊する砲艦からの砲撃によってマフディー軍を攻撃。

マフディー兵の総自殺のような悲惨な戦いで、次々と押し寄せるマフディー兵はイギリス・エジプト連合軍の射撃の前になぎ倒され、早朝に始まった戦いは昼前には終わり、この戦いでマフディー軍の半分にあたる27,000が死傷。イギリス・エジプト連合軍は382人しか死傷者を出しませんでした。

その大部分は第21騎兵連隊の突撃によるもので、かつて戦の華であった突撃攻撃がいかに時代錯誤かをまざまざと見せつける戦いでもありました。

▽オムドゥルマンの戦い「第21騎兵連隊の突撃」

オムドゥルマンの戦い

敗れたアブドゥッラーヒはオムドゥルマンから辛うじて逃れ、マフディー運動の故郷アバー島に戻りますが、イギリス・エジプト連合軍の部隊による追撃を受けて戦死しました。

オムドゥルマンを占領したイギリス・エジプト連合軍は、旧都ハルツームを回復しスーダンをイギリスとエジプト両政府で統治する「スーダン・コンドミニウム協定」を調印。ここにおいて「英挨領スーダン」が成立しました。キッチナーは初代総督に就任しました。

マフディーのその後

マフディー軍の残党はその後も地方で散発的な抵抗を続けましたが、20世紀初頭には軍事抵抗は沈静化していきました。

マフディー勢力はその後、ムハンマド・アフマドの末っ子で穏健派のアブドゥルラフマーン・アル=マフディーの下に集まりイスラム社会改革を目指すグループに変化。

スーダンが1956年にイギリスとエジプトから独立する際に、アブドゥルラフマーン・アル=マフディーはマフディーの後継団体であるウンマ党の設立に関わり、その後現在までウンマ党は世俗主義イスラム政党として首相を多く排出しています。

ウンマ党の指導者にはムハンマド・アフマドの子孫が多く、サーディク・アル=マフディー(首相在位期間:1966年7月~1967年5月)、サーディク・アル=マフディー(首相在位期間:1986年5月~1989年6月)を始め、多数の閣僚や在外スーダン大使を排出する名門一族となっています。

まとめ

世直しを求める民衆の声は、1人のカリスマ的な男の周辺に集まり、いくつかの軍事的成功をきっかけに周辺の人々を統合する一大運動に変化していきました。

しかし当時のマフディーの求心力はあくまで「軍事力」であって、どこかに敵を見つけて勝ち続け「マフディーによるイスラム国家」を拡大し続けなければならない運命にありました。それも初期イスラム教団に非常に似ているのですが、いつかどこかで破綻する運命にあったと言えると思います。

この時の運動により、様々な部族が割拠する広大な土地はスーダン(現在の南スーダンを除く)という一つの地域にまとめられ、その後の英挨領スーダンの統治下で文化的・経済的統合がなされていくことになります。

参考文献

エジプト近現代史―ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで― (世界歴史叢書) 山口直彦 明石書店
「新版 エジプト近現代史―ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで― (世界歴史叢書) 」2011年10月19日『amazon.co.jp』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4750334707/hayskonpa-22/

 
執筆: この記事はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2019年3月8日時点のものです。

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