コンプガチャは何が問題なの?

コンプガチャは何が問題なの?

今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

コンプガチャは何が問題なの?

「ソーシャルゲームの「ガチャ」の怖さがわかる『カードコンプシミュレーター』 46万円でコンプ!」2012年02月11日『ガジェット通信』
https://getnews.jp/archives/168116

「ケータイゲームに横たわる問題(2)」2012年4月9日『Yahoo! JAPAN』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120409-00000080-zdn_m-mobi

どうもイマイチなにが“問題”なのか俺には理解できないんだよなぁ。上記の記事では全部のカードを集めるのに46万円という大金がかかると言う。

でもさ、これって1億円の宝くじを当てるのに、いくらかかるか? を計算するのと同じじゃないの? たぶん1億円以上かかるだろう(笑)。で、「1億円の宝くじを当てるのに1億円以上かかる! なんて恐ろしいんだ!」と騒ぐのと、なにか本質的に違うの? と俺は思ってしまうのだが。

ようするに宝くじにせよコンプガチャにせよ、絶対当てようとすると非現実的なのが“運良く”当たるから嬉しいのであって、ギャンブルの面白さというのはそういうものだろう? 割に合わないものが当たるから嬉しいわけだ。

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普通のガチャはOKでコンプガチャはダメだというのも理論的でない。すべて確率で計算できるのだから、そろえるのが10枚のカードだろうが、1枚のカードだろうが、そろえる難易度つまり必要な金額はあくまで計算で求まる値でしかない。

そこそこの確率で出る10枚のカードをそろえるのと、ものすごく低い確率でしか出ない1枚のカードをそろえるのとは、理論的には何も違いはないわけだ。それなのに10枚そろえるのはダメで、1枚そろえるのはOKというのは、何が違うのだろう。

まあ人間に「あと少しで集まる」「ここまでそろえたんだから後に引けない」と錯覚させるというのはあるだろう。実際は10枚のうち最後の1枚を引き当てる難易度が跳ね上がるので、ぜんぜん“あと少し”でも“あとに引けない”でもないのだが。つまり9枚揃えたところで、まだ富士山の登山口に立った程度でしかない(苦笑)。

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でもそういう“勘違い”をさせるのがけしからんというのは、あまりにあまりじゃなかろうか。100枚ぐらい買えば1億円の宝くじを当てられそうと勘違いする人間がいたからといって、宝くじが悪質なことになるだろうか。

勘違いしている人間には、教えてあげればいいのだし、教えなくても遠からず身をもって知るわけで、そういう“実績”が社会に蓄積されていけば、勘違いしてのめり込む人間は減るだろう。それでもハマる人間はいるかもしれないが、そんなのは社会全体から見て無視できるぐらいの人数のはず。

1億円の宝くじを絶対当てようと必死になる人間がいたら、それはただの馬鹿だろう。そのために破産した人間が出たとしても、同情する人間はいないだろう。コンプガチャも同じなのだ。もし絶対カードをゲットしようと本当に46万円も使って破産した人間が出たとしても、それはその人間がただの馬鹿というに過ぎない。

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宝くじだって本気で当てようとしている人間などおらず、「もしかしたら当たるかも」という感覚を楽しんでいるわけだ。コンプガチャも「3枚たまった。うれしい」みたいに、そういう感覚を楽しむものだろう。
それができず、のめり込んで痛い目にあった人間が出たとしても、問題視するほうがおかしい。なんだって常軌を逸した行動に出れば破滅するのは当たり前。

……俺はそう思うけどねぇ。まあ、基本的に俺はこういう考え方なので馬鹿らしくてギャンブルなど一切やらないのだが、競馬も株も(笑)、やる人間はリスクを計算のうえで楽しんでるんだと、思うんだけどねぇ。違うのかしらん。

グルーポンもそうだったけど、目新しいから社会全体として耐性ができてないだけで、時間が経てばどの程度のリスクがあるかが周知され、適切に楽しめるようになると思うんだけどね。もちろん常軌を逸脱した行動に出る人間はゼロにはならないだろうが、それは競馬や株も同じこと。

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そういうリスクは個人が学習すべきだし、あるいは親が子どもの行動に責任を持つべきで、何でもかんでも国家が取り締まれというのは、個人や親の責任放棄としか思えん。どんな馬鹿な人間でも安全・安心して暮らせる社会って……うれしいの?

一昔前のSFマンガではそういうユートピアの姿をしたデストピアが定番として描かれたものだったけどね。すべて政府やそのコンピュータに管理され、人間は生気のない死んだような目で淡々と日々をただ生きているだけの世界。馬鹿でも生きていける世界というのは、みんな馬鹿になっちゃうんだよ(苦笑)。

でも最近はみんなそういう世界がお望みらしい。これもジェネレーションギャップなのかねぇ。ソ連という国があって、常に全体主義国家をアンチテーゼとして意識していた頃に育った世代と、それ以降の世代では、この辺の感覚が違うのかしらん? ソ連崩壊が1991年で、物心ついた時期(仮に10歳として)にソ連がまだあった世代というのはいまは30歳以上だよな。ソ連が苦しみ悶え始めたのは1980年代だから、それをリアルタイムである程度大人目線で見ていた世代は、さらに+10歳(現在40歳)すべきかもしれない。

競争のない社会、暮らしが保証された社会を目指したら、あんな恐ろしい国ができちゃいました。ああいうことにならないようにしましょう! みたいな感覚が常に身近にあったと思うのだが。

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追記
頭の悪い人ってのは、ものを考えないから自分の頭の悪さにも気づかないのだろうな(苦笑)。

「コンプガチャと原発の間にあるもの」2012年05月11日『ごんざれふ』
http://otsubo.info/blog/2012/05/post-590.html
多分この人はわかっていていっていると思うのだが、コンプガチャの場合はその「確率」が不透明なところが、、とか、ギャンブルは法で規制されているが、コンプガチャは野放しとかまあそういう話は脇においておいてだ。

意味不明なんだよな。もちろん既出の“悪い”派の言い分は知っている。そしてその意見に妥当性がないと言っている。その意味では“わかっていっている”わけだけど、どうもこの文章のニュアンスは、俺が悪いとわかっていて、あえて悪くないと主張していると思っている感じだ。そんなややこしいことはしない。悪くないと思っているから、そう主張しているのだ。

そのあと列挙されている“悪い理由”っぽいものが、全然理由になってない。これこそ、この人は自分で自分の主張がまっとうな理屈になっていないことを自覚しているから、こういう「そういう話は脇においておいて」と、なんか逃げなんだか、よくわからない書き方をしているのだろう。“不透明だから悪い”というなら、“なぜ不透明だと悪いのか”まで論じて、初めてまともな理屈になる。

ギャンブルは規制されているうんぬんの話も、まったく本文をまともに読んでいないのだろう。ギャンブルだから悪いというなら、単純なガチャも悪いはず。問題は単純なガチャとコンプガチャに本質的に差がないのに、それを差別化し、一方を違法だとしているのが、おかしいという主張なのに。

この人のブログは以前読んだことがあり、「面白いブログだな」とは思ってたんだけどね。理屈に基づく思考ができない人だったとは、幻滅。今にして思えば、話題としては面白いが主張そのものや分析には疑問がつくものが多かったのは、そういうわけか。

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途中でくじの確立変えるから悪いんだし、そもそもかけごとが規制されないと思ってるのがおかしい。大丈夫?

これは別の人のコメント。だから途中で変えるのがなぜ悪いのか? まで理屈をつけなきゃ、「悪いから悪いんだ」といってるのと同じ。単なる感情に過ぎないのだけど、多分当人にその自覚はないんだろうな。

最大の問題は「確率の錯誤を正しく自覚できるかどうか」。法規制の分岐の根幹は、感覚的な部分でしょうけど、ここにあるかと。これを「悪い」と取る人が多いから、こうなった//10枚コンプと1枚じゃ必要計算量が全然違う

これもなぁ。「みんながダメっていうからダメなんだ」としか言ってないことを自覚してるのだろうか。というかこんなくだらないことを書く暇があったら、自分で少しはものを考える時間にあてたら? なんで自分で考えようとしないのだろう。

考えた結果こそを自分の意見として書くべきで、こういう人たちはとりあえず何かを書くことで、自分は物を考えてるんだという錯覚を起こしちゃうんだろうな。その意味では『はてブ』も錯覚商売かもしれない(大笑)。

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

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