本とお酒と謎がうれしい『九十九書店の地下には秘密のバーがある』
これまでにも著者の岡崎琢磨さんは『珈琲店タレーランの事件簿 また会えたなら、あなたの淹れた珈琲を』(宝島社文庫)を第一作とするシリーズや『春待ち雑貨店ぷらんたん』(新潮社)などで趣のあるさまざまな店を舞台にされてきたが、読者にとっては本書が最高峰といっていいのではないだろうか。なんといっても書店である。それも、地下にバーがある書店だ。本とお酒が好きな人にはたまらないだろう(巻末にはそれぞれの短編で言及された作品名リストが掲載されているのも、読者にはうれしい趣向。私自身はほぼ下戸なので、地下の店はフルーツパーラーか甘味処だったらさらに喜ばしいけれど)。しかも、ここにはもうひとつ見逃せないボーナスポイントがある。それは書店およびバーに、魅力的な謎がセットになっていることだ。
主人公の長原佑はずっと、女手ひとつで自分を育ててくれた母親に心配をかけまいとして生きてきた。進学校から地元の優秀な国立大学に入学し、半官半民の金融機関に就職した彼の前途には、安定が約束されていたはずだった。しかし、おとぎ話では”王子さまとお姫さまは結婚して幸せに暮らしました”で大団円となるけれども、実際の人生においては死ぬまでゴールはやってこない。社会人としては(少なくともその職場においては)有能ではなかったことが、佑のつらいところだった。心をすり減らしながら希望は何もないと追い詰められる生活に疲れ、佑は退職という道を選択した。
社員寮を出て自宅へ戻った佑は、県の職員として働いている幼なじみの寺本晴美にちょくちょく飲みに誘われるように。晴美に資格の勉強を始めるよう勧められ、翌日最寄り駅近くに昔からある〈九十九書店〉に足を向ける。佑の記憶ではさほどいいイメージはなかったのだが、「暖色の電球に照らされた店内は昼でもゆったりと落ち着く薄暗さで、本棚はナチュラルな木材を使った温かみのあるものに一新されてい」て「店内のあちこちに(中略)ポップが掲げられ、まわりにはその趣旨に沿った本が、判型を問わず並べられて」いるという、どの書店にも似ていないような店に変貌を遂げていた。呆然とする佑にカウンターから声をかけてきたのが、エプロンに「九十九」というネームプレートを付けた女性店員。彼女は佑が求職中であることを見抜き、仕事を提供できるかもしれないから今晩もう一度お店に来るようにと謎めいた誘いの言葉を口にする。怪しみながらも再び店を訪れた佑に、彼女は地下への階段を示す。下りた先にあった扉のプレートには〈BAR TASK〉の文字が。「九十九書店とひとつながりのような印象」の瀟洒なバーには、やはり本好きの常連客であるお洒落な会社経営者・里中淳之介とフリーターの美女・遠山未来の姿があった。そして最後に、女性店員が九十九十八子、ツクモトワコと名乗る。トワコさんが提示した驚きの仕事内容とは…?
正直なところ、トワコさんが佑に仕事を命じるやり方は、いずれもぼったくりかさもなくばパワハラすれすれの内容である(いや、すでに踏み越えているかも)。しかし佑自身、その業務(あるいは試練)をひとつクリアするごとに自らも成長の階段を一段ずつ上がっていく。職業小説あるいはミステリーという側面だけではない、ひとりの若者の成長小説でもあるのだ。
本書でもうひとつ印象的だったのが、佑の母親の存在だ。私事になるがうちの長男もまさに就職活動が始まりつつあるところで、しばらくは慣れない会社説明会やインターンなどで神経を使う日々が続くことが予想される。そんな中で、がみがみ口を挟んだりせずに温かく見守るという自然な気遣いができるかどうか自信がない。佑の母親はすごいおかあさんではないだろうか。
書店やバーという居心地のよい空間にあっても、悩みのない人間はいないし、すべてのトラブルから解放されて生きることは不可能だ。とても幸せなことに佑の周りには、トワコさんや、里中や未来や、晴美や母親がいてくれた。それでも、自分の中に最後の最後で踏ん張れる強さがなければ、他者からのどんな優しさもアドバイスも心に響かないものだと思う。物語の最後、佑は再び世間の厳しさにさらされることになるかもしれないが、自分自身で下した決断に自信を持ってほしいと思う。そして道に迷っている読者が本書を読むことで、佑の姿に勇気づけられたらいいなと願っている。(発売から2か月ちょっとが過ぎた本ですが、入手に少々手間取ったためご紹介が遅くなりました)
(松井ゆかり)
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