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「海賊の国」スールー王国の歴史(歴ログ -世界史専門ブログ-)

マギンダナオ王国は王クダラト(在位1616年〜1671年)の治世下で大いに発展。クダラトは1625年にサランガニ諸島を攻撃してミンダナオ南部から東部のサンギル人の勢力圏を抑え、蜜蝋などの貿易を支配し、また海洋民イヌランやバジャオを統制し、オランダや中国との貿易を有利に進めました。

クダラトは1645年頃にスルタンを名乗り、スールーやブルネイ、テルナテなど近隣のムスリム地域にスペインへのジハードを呼びかけました。1677年にはマギンダナオはサンギヘ諸島へ遠征しスペイン勢力を一掃しました。

また、ヨーロッパの七年戦争の影響でイギリスがスペインに攻撃を加えてマニラを占領。イギリス船が海域を支配するようになり、伝統的にこの地域に強い影響力を持っていたオランダは排除され、バタヴィア(ジャカルタ)に拠点を移すことになります。

また、中国人による農園や錫鉱山の開発が始まり、労働者(奴隷)の需要が高まったため、イラヌン人による海賊行為が横行し、マギンダナオは海賊王国としてオランダ人から恐れられました。

しかし、1780年代頃からイギリス人が貿易の拠点をスールー諸島に移し、それに応じる形でイラヌン人が活動の拠点をスールー諸島やカリマンタン島北部に移すとマギンダナオは急速に衰退していきました。

4. 強大化するスールー王国

強大化するスールー王国

一大貿易センター・スールー王国

スールー王国は中国への朝貢を1727年に再開し、アモイと通交を開始しました。

するとイギリスが中国への貿易を求めてスールー諸島に貿易の拠点を移したのです。スールーはイギリスと友好通商条約を締結し、イギリスとの貿易によって武器・弾薬、さらにはアヘンを入手。王権を強化し軍事力をつけたスールーはカリマンタン島北部を支配し、スールー海域を手中にし、モルッカ諸島との貿易の主導権を握りました。

この原動力となったのが、マギンダナオからスールーに移って来たイラヌン人で、造船・航海技術を持った彼らを統制することで、スールーは海域支配に成功したのです。

さらには、海洋民バジャオ人も統制下に入れることで、ナマコやツバメの巣、フカヒレ、亀甲などの海産物を入手できるようになり、王都ホロはこれら海産物やモルッカ諸島などの林産品を集積。王国を支配したのが王都ホロを中心としたタウスグ人で、バジャオ人は海産物の収集、イラヌン人やサマル人は敵対する国の船への「海賊」行為をそれぞれ行うことで、スールー王国はスールー海域を支配する貿易立国となりました。

18世紀後半にはスペイン船・中国船が訪れて、米・砂糖・綿布と海産物を交換して、広東やマニラに運び、ポルトガル船はマカオからやってきて中国産品と真珠を交換しました。19世紀初頭はアメリカ船が訪れるようになり、武器・弾薬と海産物を交換し広東に運びました。スラウェシ島出身のブギス人はシンガポールに拠点を持ち、武器・弾薬、綿布、アヘンを交換しました。

海賊の国・スールー

イラヌン人やサマル人の海賊行為は、それまではキリスト教徒に対するジハードの意味がありましたが、中国人が経営する農園や鉱山での労働者が不足し需要が高まるに従って、「奴隷獲得」のための海賊が目的になってきました。

元々はマギンダナオからスールーに移って来たイラヌン人が主体だった海賊も、19世紀初頭にはスールー諸島のバラギギ島のサマル人が主体になっていきます。度重なる遠征で富裕になったサマル人は、次第に王都ホロから脱するようになり、独自の外国貿易や遠征隊を送るようになっていきました。

 
そんな中、フィリピン諸島全域の支配と貿易の独占を狙うスペインは、スールー海賊を撲滅するために次々に遠征軍を派遣。1848年にバラギギ島を占領し、1851年に王都ホロを占領。そしてスールーのスルタンと条約を交わし、スペインの宗主権を認めさせました。

しかし「法的拘束力」などというものの意味があまり分かっていなかったスールーのスルタンは、引き続き他のヨーロッパ諸国との貿易を続け、海賊行為もやみません。

そこでスペインは1871年からホロ周辺の海上封鎖に打って出、一方でヨーロッパ諸国にスールーでの貿易を認める代わりにスペインの宗主権を認めさせました。

サマル人は引き続き海賊行為をやめませんでしたが、当時の新兵器・蒸気船の登場でサマル人の船は太刀打ちできなくなりました。

さらには、シンガポールの発展やイギリスによる香港の獲得もあり、スールー諸島の貿易拠点としての魅力は薄くなり、さらにはそれまで中国を支えてきた旺盛な中国本土の消費がアヘン戦争の敗北によって不安定になり、スールー王国は急速に衰退していきました。

まとめ

中国が好景気に沸き、その中国や東南アジア島嶼部との交易を望むヨーロッパ諸国が押し寄せるという状況にあって、地の利を得たスールー諸島は一時的に交易を支配する強国にのし上がりました。

しかし、スールー王国は配下のタウスグ人やサマル人を結束させることができず、旧態依然とした制度の中で時代に取り残されて崩壊してしまいました。

また、民族はこの時には非常に曖昧で、居住地と民族名がイコールではありませんでした。というのも、当時「サマル人」「イラヌン人」とはイコール海賊のことを指し、海賊は捕虜を獲得し、その捕虜が海賊化してさらに捕虜を獲得するという構造ができており、主にフィリピン諸島のキリスト教徒が捕虜海賊になって「サマル人」と呼ばれていたり、イラヌン人が海賊の拠点地で定住化してイラヌン人ではなくなるなど、流動性が高く一つの集団としてまとめるのは難しい状況にありました。

そういう、移動する集団の中で形式的にスルタンを中心にした人間関係の中で成立した国だからこそ、崩壊も容易だったし、継続することが困難だったに違いありません。

参考文献

「岩波講座 東南アジア史 東南アジア近世の成立-15〜17世紀 3.海域東南アジア東部 早瀬晋三」『amazon.co.jp』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000110632/hayskonpa-22/

 
執筆: この記事はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2019年1月7日時点のものです。

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