「ボクは日本に住んでるけど幸せです。挙式もできたし、仕事もある。友達もいる」と語ることの何がいけないのか~モデル・マイノリティとデュアル・アイデンティティ(レインボーフラッグは誰のもの)

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モデル・マイノリティとデュアル・アイデンティティ

今回は少年ブレンダさんのブログ『レインボーフラッグは誰のもの』からご寄稿いただきました。

「ボクは日本に住んでるけど幸せです。挙式もできたし、仕事もある。友達もいる」と語ることの何がいけないのか~モデル・マイノリティとデュアル・アイデンティティ(レインボーフラッグは誰のもの)

杉田議員によるLGBTへの差別発言に対し、先月27日には抗議集会が行われた。続いて立民党が同性婚の法整備検討を発表し、LGBTへの支援・差別解消へと争点が定まりつつある中、あるTwitterユーザーの発言が物議を醸した。

あるTwitterユーザーの発言

ユーザーの太悟さんは「ゲイの自分が恋人と楽しく生活している現状を世間にツイートして、偏見を減らしたい。そういう思いからツイッターを始めました」と語っているが、よりにもよって杉田議員の発言が世間の注目を浴びる最中に彼はポストしている。杉田議員の発言を肯定した上に、自分は「差別を受けていない当事者」であり、現状この通り「幸せだ」と、まるで「LGBTへの差別」などこの国にはないかのような主張を今行うことが何を意味するか、彼が想像出来なかったとはとても思えない。

当然だが太悟さんのツイートには「LGBTへの偏見がない人もいるが、依然として差別的取扱い・偏見は根強い」「過去に戦ってきた人たちが勝ち取ってきたものを横取りただ乗りしている」「日本じゃなくて自分の身の回りだろう」、「個人的な経験を何例持ってきたところでLGBTは差別されていないという証明にはまったくならない」など辛辣な批判が集中した。


小学生の時には「やーいオカマー!」と石を投げつけられ、同性愛は性的倒錯ですと本で読み、思春期に性的指向に苦悩して、大学生の時に自殺未遂して、修習生のときにあからさまに警戒されて、カムアウトしたら母に号泣され、父親からは親不孝者扱いされて、

そんな僕の住んでる国は

日本です。

しかし、LGBTの中には杉田議員を擁護する者も一定数存在しており、彼らを含め「日本は寛容だ」「日本には差別がない」「日本スゴイ」といった意見に魅力を感じる人たちの賛同を太悟さんのツイートは一手に引き受け、瞬く間に8万件以上のリツイートを得ている。

今回これほどまでに議論が加熱したのは、杉田議員の「生産性」を巡る発言がLGBTのみならず、障害者や高齢者、傷病者、女性、児童、セックスワーカー、労働者、移民、無国籍者などなど、他の社会的弱者への差別と痛ましい事件を容易に連想させ、誰もが自分も差別問題と無関係ではないと直感し多くの人々の関心を得たからだ。にも拘わらず、「日本には差別がない」と現実から目を反らしたい人々がこれだけいることは(何割かが偽装ユーザーであったとしても)圧巻だ。
下記は杉田議員を擁護するLGBTユーザーの典型的なものである。ちなみに「ジャックの談話室さん」は有名だし、私自身、彼には伝えたいことがあるので、ユーザー名にボカしはいれない。

杉田議員を擁護する意見01 杉田議員を擁護する意見02 杉田議員を擁護する意見03

ところで先ほど、LGBTの中には杉田議員を擁護する者が一定数存在していると述べた。
彼らにも様々な立場があるが、例えば「自分たちは差別されていない」「自分たちは今のままで十分に幸せだ」「LGBTには支援は必要ない」「LGBTは面倒な存在と思われたくない」などその主張には共通点がある。加えて、愛国心、保守・右派に親和的であり、左派に対して忌避的、排外主義的な傾向も特徴だ。
太悟さんもわざわざ最後に「日本」と付記している点は見逃せない。
こうしたLGBTの人たちは前々から存在していたわけだが、近年、「LGBTブーム」と共に存在感をより鮮明にさせている。
この人たちも自分たちがLGBTのカテゴリーに当てはまることは十分理解しているわけだが(その自己規定はしばしば「自分はLGBTではない。ただのホモだ」などという形を取る)、にも関わらずLGBTに反対しており、むしろLGBTを抑圧する側に自己同一化する。
どうして彼ら、彼女らのような人たちがLGBTに一定数存在しているのか、不思議に思う人もいるだろう。
彼ら、彼女らは、マジョリティに対して「面倒をかけない」「幸せである」「自分は差別されていない」、しまいには「この世に差別など存在しない」といった主張、振舞いを行う。
こうした人たちは、マイノリティの中でも、抑圧者に自己同一化し「模範的なマイノリティ」であろうとする人たちだと言える。
言ってみれば、いわゆる「モデル・マイノリティ」の「ステレオタイプ」をマイノリティ自らが進んで受け入れ、同化し、演じているような状態だと言える。

モデル・マイノリティ

「モデル・マイノリティ」とは「模範」「手本」となるようなマイノリティのことで、本来はエスニック・マイノリティにおける「ステレオタイプ」の一種だ。
SNSでよく見かける「名誉〇〇人」といった揶揄のプロトタイプである、と聞けば誰もが「ああ」と思い浮かぶだろう。それだ。その原型が「モデル・マイノリティ」の概念だ。とりわけ北米における「成功したアジア系アメリカ人」のイメージが有名だ。「モデル・マイノリティ」の事例は移民の問題を扱う数多くのエッセイや論考が触れているので説明は割愛する。
「モデル・マイノリティ」の概念は、エスニシティにおいてだけでなく、セクシュアリティ、ジェンダーにおけるイデオロギーの対立や、アイデンティティ・ポリティクスを語る時にも有用である。

例えば、特例法が制定されてからこの15年間延々とメディアが垂れ流してきた「性同一性障害」の「成功物語」や、「ニューハーフの里帰り」のようなバラエティ番組、そしてそれを自ら演じようとするタレントの振舞いなどは、トランスジェンダーの「モデル・マイノリティ」が機能している非常に判り易い事例だと言っていい。人々に感動を与える反面、物理的にそうは「絶対になれない」(「絶対に」である)一部の当事者には、非人道的と言っていい大変な苦痛を与えて来たわけである。
「GIDエリート」(※1)や、完全にシス化するトランスジェンダー「埋没」も実は典型的な「モデル・マイノリティ」だと言える。「モデル・マイノリティ」のイメージや、それに完全に同化しようとするマイノリティの存在は、同化出来るマイノリティも、それが出来ないマイノリティも含めて、マイノリティ・グループ全体を外側からも内側からも責めたて、苦しめ、そして抑圧する。

杉田議員に続いて、小林議員がこんな発言をしているが、これは典型的なマジョリティによる、マイノリティに対する「模範」の押しつけだ。これも判り易いケースだ。

小林議員

しかし、一方で「模範」を自ら演じたいマイノリティにとって小林議員や杉田議員の発言は「都合の良い内容」となるので、「ジャックの談話室さん」を初め太悟さんサイドには歓迎されることになる(事実、歓迎されているだろう)。
「モデル・マイノリティ」の概念を用いると、彼女の発言が「単に酷い」というだけでなく、マイノリティのアイデンティティを内外から締め上げ、分断する非常に問題のある発言であり、この「モデルの押し付け」自体が一種の「差別構造」であり「社会問題」だということが見えて来る。

ミッツ・マングローブが杉田議員の発言について次のようなことをコメントをしている。

「ミッツ「心外、ふざけんな」杉田議員発言に嫌悪感」2018年7月29日11時50分 『日刊スポーツ』
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201807290000410.html

「怒っている」らしいのだが、「あんまり“弱者至上主義”みたいなものに陥り過ぎないようにしていなきゃいけない」と言っているようにバイアスがかかっているのが判る。いつしか彼女、彼らは権力者を揶揄したり、怒ったりせず、弱い者をバッシングするようになった。なぜだろう?
太悟さんはツイートで「オネエタレントの好感度が良く」と語っているが、なぜ人々にとってオネエタレントの好感度が良いか考えたことがあるだろうか。オネエがモデル・マイノリティ化しているからこそ人々に好感が持たれるのである。そこにはメディアの力や、マジョリティにとって自分たちが差別しているマイノリティが「こうであったらいいな」という幻想が働いている。「成功したマイノリティ」、「人々から注目を浴びる異端者」として「模範的」「象徴的」であるためには、オネエは強い者を立て、弱い者をバッシングする必要があるのだ。
もはやオーバーグラウンドで活躍するオネエタレントは「キャンプ」でも「ドラァグ」でも「LGBT」でもない。まるで権力者に追従する「ピエロ」のようだ。

ところで同性愛者は「日本に住んでるけど幸せです。挙式もできたし、仕事もあるし、友達もいる」と主張してはいけないのだろうか。
太悟さんとは好対照だったあるビアンの挙式をひとつ挙げておく。

2013年の同性結婚式

2013年、元タカラジェンヌ東小雪さんと増原裕子さんが東京ディズニーリゾートで挙げた同性結婚式だ。
オバマ大統領が同性婚支持を発表した翌年、世界的にLGBTがブレイクする中、まだ日本ではLGBTが「ブーム」と呼ぶには時期尚早の当時、彼女たちの同性結婚式の話題は世間を席巻し、ガーディアンなど海外メディアにも取り上げられた。Twitterのアルゴリズムが異なる今なら太悟さんたちを軽く凌駕する数十万リツートを獲得しただろう。
この時も「売名行為だ」などとする否定的な意見はあったが、例えば太悟さんたちの挙式に寄せられるような「フリーライドだ」とか「差別的だ」などとする批判が彼女たちに集中することはなかった。

それは彼女たちの挙式が「LGBTへの差別をないものにはしていなかった」からだろう。彼女たちの行動はLGBTの存在に注目してもらうためのものだったし、また彼女たちがLGBTの中でも肩身の狭い「女性のマイノリティ」であり、「女性」に対する強烈なエンパワメントになったことも無関係ではない。その意味で彼女たちの挙式は紛れもなく一種の「抵抗運動」だった。
「活動家」と言うと、いつも怒って過激な表現で権利を主張するというイメージだが、それは「活動家」の一面であり、ある時は「笑顔」や「セレブレーション」で「抵抗」したりもしているのである。

とは言え、彼女たちが一部の当事者にとって「モデル・マイノリティ」として機能していなかったかというか、そうとも言い切れない。
以後、彼女たちは書籍を出版し、講演を企画し、広告代理店とタイアップするなど、企業に対して積極的なアプローチを行ういわゆる「ダイバー系」「キラキラ系」の引率者としての一翼を担うことになるが、例えば彼女たちが取り組んだ「代理出産」では、仲間のLGBTを初め、フェミニストから本気の総攻撃を受けて大炎上している。

企業系シンクタンクの統計の信憑性、ピント外れなトイレ問題、ホームレス排除や草の根活動への予算切り上げとバーターでLGBT施策を進める行政など、「ダイバー系」「キラキラ系」が引き起こした問題は枚挙に暇なく、日本ではビジネスイノベーションとしてLGBTが広まってしまったとの批判は定評となった。
現在、「ジャックの談話室」さんたちを初め、各方面に萌芽した「LGBTに反発するLGBT」のほとんどが「ダイバー系」、「キラキラ系」を目の敵にしている。

しかし、例えば経団連が「ダイバーシティ」「インクルージョン」を提唱し、企業が人材として積極的な取り組みを行うようになったり、職場におけるLGBTへのハラスメントを「SOGIハラ」として再定義し可視化したり、LGBTの起業家、学生たちの異業種交流会が開かれたり、LGBTのハイソサエティの形成や国際交流など、数ある運動の中で「ダイバー系」「キラキラ系」が社会の上部構造に対して強い影響力を持ち、極めて高い効果を上げたことは否定出来ない。

太悟さんは「同性挙式をしようとしたら、どこの会場も喜んで提供してくれて沢山の参列者が来てくれた」と述べているが、それこそ彼女たちの活動がなかったら、あり得なかった。そして、LGBTのマーケット化、階級進出を男性に比べて経済的には自立が困難である「女性」のマイノリティが推進して来たことは決して過小評価されるべきことではない。
彼女たちが切り開いた道を踏み締めながら、後進の、しかも男性のマイノリティである「ゲイ」が「日本には差別はない」とキラキラしている様はなんとも「皮肉」な顛末である。

デュアル・アイデンティティ

「モデル・マイノリティ」の「ステレオタイプ」や、それを自ら演じるような存在は、あるマイノリティ・グループから成功者が出るまでの歴史や、それ以外の絶対的(「絶対的」「物理的」にである)な格差にあるマイノリティの苦悩と存在を覆い隠し、あたかも世の中に差別がないかのような錯覚を人々に与える。
だが「モデル・マイノリティの問題」はもっと複雑だ。
マイノリティの人たちが「模範的であろう」とすること、マジョリティに同化しようとすること、「モデル・マイノリティ」であろうとすることを批判出来るかというと、それは非常に難しいと言えるからだ。
なぜならば、「モデル・マイノリティを演じないと生きて行けない」ということが、そもそもこの社会に「差別がある」ことの証明に他ならないからだ。
太悟さんや、「ジャックの談話室」さんの行いは、他の差別を受けているマイノリティを犠牲にして、自分だけが模範的であろうとすることで生き残ろうとしているようなものだ。しかし「モデル・マイノリティ」は、今まで紹介して来たように、マイノリティの人たちにとって、ある時は「生存戦略」であり、ある時は「抵抗運動」であり、ある時は「啓発」でもあるのだ。マイノリティにそうさせているのは世の中の人々なのだから、一体、誰が、「モデル・マイノリティ」を語り、批判出来ると言うのだろう。
ここには根本的な矛盾がある。

例えば私は、普段は「埋没」しているわけで、それこそ「模範的」な「シスジェンダー」として暮らしている。「ジャックの談話室」さんに負けず劣らず、私自身が「ジャックの談話室」さん的だ。トランスジェンダーで「埋没」する人たちというのは、お金と時間をかけて自分の身体を改造し、シスジェンダーに何から何まで同化してしまう。その保守性、そのウヨっぷり、その暴力性と言えば、私は「ジャックの談話室」さんに全く負ける気がしない。
こうしてマイノリティへの差別を訴えながら、その実、何食わぬ顔で制服を着てマイノリティを取り締まる警官でいるのが私の日常だ。これをダブルスタンダードだと責められるマジョリティなどこの世の中にはいない。いていいはずがない。

先月27日の抗議集会でカムアウトした林さんは「だって、カミングアウトなんかしたら私は生きて行けないって、ずっと自分の中で言い聞かせて来たからです」と語っている。それはつまり普段は「模範的」な「異性愛者」として振る舞って来たと言ってるようなものだ。
「ジャックの談話室」さんや、太悟さんは「活動家」を何かと蔑み、自分とは異なる存在と見なしているが、その「活動家」だって、きっと普段の姿は君たちとそんなに違わないはずなのだ。

「模範的」な「異性愛者」であったり、「シスジェンダー」であったり、マジョリティの「ピエロ」でいる限り、「私たちは差別を受けない」。その通りだ。

だから私は、「ジャックの談話室」さんや、太悟さんを自分とは異なるマイノリティだと見なしていない。多分「モデル・マイノリティ」として生きている私たちは似ている。私と「ジャックの談話室」さんは、似ている。もう一人の自分だと思う。
ただ、私や林さんと「ジャックの談話室」さんたちに違いがあるとしたら、「モデル・マイノリティ」として生きて行くことに「葛藤」しているかどうかだろう。

「普通であろうとすること」、「模範的であろうとすること」、「迷惑をかけない存在であろうとすること」をマイノリティが望んだとしても、それはただちに責められない。ところが「モデル・マイノリティ」として生きて行く時、マジョリティになれたとしても、物理的、身体的にはそうはなれない以上(性指向性にしても、性自認しても、それが「変態」や「嗜好」であってもそうである)、マイノリティの内面は分裂し、二重化する。アイデンティティは二つに引き裂かれる。

「ジャックの談話室」さんと、私の違いはと言えば、そこで「葛藤」するか、しないかの違いでしかない。
私は少なくとも「葛藤」している。君はしていないのか。「葛藤」していることが私に残った「良心」だ。

「モデル・マイノリティ」であろうとする「ジャックの談話室」さんは、アイデンティティを統合した。でも僕はアイデンティティを統合しなかった。それだけの「違い」だ。いずれにしても、僕たちを責められるマジョリティはいない。
そうさせているのは、マジョリティの人たちだからだ。

「ボクは日本に住んでるけど幸せです。挙式もできたし、仕事もある。友達もいる」。
そう言ってもいい。言えばいい。存分に。そして私たちが生きるために「模範的」であろうとすること、保守的であり、愛国心を抱くことは誰からも責められない。だとしても、立場やイデオロギーを超えて責められることがひとつある。

例え生きるためであったとしても、誰の心にもある「自分以外の誰かを劣る者とすることで、自分を優位に置く」行いは責められるべきだ。

これは生き方や趣味の問題ではない。思想の問題であり、魂の問題だ。

※1「GIDエリート」「性同一性障害エリート」 吉野靫は論文『「多様な身体」が性同一性障害特例法に投げかけるもの』で性同一性障害における規範性を「性同一性障害エリート」という言葉で批判した。SNSでも類似する概念や言葉を見かけるが、吉野が理論化した性同一性障害への批判モデルである。

※大きな不利益を被らないと推定される人はユーザー名にボカしを入れていません。

執筆: この記事は少年ブレンダさんのブログ『レインボーフラッグは誰のもの』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2018年08月02日時点のものです。

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