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ゲームをつづける町、バスを待つばかりの人生

ゲームをつづける町、バスを待つばかりの人生

 創元SF短編賞を受賞してデビューした石川宗生の第一短篇集。四つの作品を収録している。どれも、型破りのシチュエーションから出発し、予想もつかない方向へと発展していく。奇想小説だけど、奇想だけに価値があるのではなく、それを転がしていく手つきがひどく独特なのだ。

 巻頭を飾るデビュー作「吉田同名」については、先に収録されたアンソロジー『アステロイド・ツリーの彼方へ』を取りあげたときに紹介した。平凡な会社員の吉田大輔(三十代、妻と男児ひとり)が帰宅途中、一瞬のあいだに一九三二九人になった。タイヘンな事態だが、本人は、

「逆説的かもしれませんが、私は今や自己化した他者、他者化した自己なんです。孔子、ユング、クーリーの言葉も、私の前では単なる戯れ言になってしまうでしょう」

—-と、どこか達観したふうだ。

 異常な事態をなんとなく受けいれて、そのあとも日常がつづいてしまうのが、石川宗生作品に共通する展開だ。日常は変わっても、そこに生きる人間の日常感覚(こうやって毎日はつづいていくのだろう)は変わらない。

「吉田同名」でも、大人数の吉田大輔はおのずと緩やかな秩序をつくっていく。彼らは政府によって警戒対象として、ひとつところに閉じこめられるのだが、そのなかで役割分担が生まれ、リーダーシップを執る吉田大輔があらわれ、ほかの吉田大輔も平和裡にそれに従うのである。

 これを自分のこととして考えてみると、毎日、おおぜいの自分と顔をつきあわせて暮らすとなったら、さぞうんざりするだろう。しかし、吉田大輔はそのうんざりを飲みこんで、「この自分」と「別の自分」とのあいだに差異を見出し、社会化していくのだ。その社会化は一種の宇宙論的諦念へまで昇華してしまう。作中に『まっぷたつの子爵』への言及があるが、いまさらいうまでもなく、カルヴィーノは寓話の語りのなかで宇宙論的洞察にふれてしまう作家だった。

 表題作「半分世界」は、ある日突然、六丁目四番地に立っている藤原家が、垂直方向に半分断ちきられた状態になってしまう。当然、外部からは内部が丸見えだが、一家はなにごともなかったように生活をつづけている。藤原家は、父・母・息子・娘の四人家族だ。半分住宅の噂はインターネットを通じて拡散され、その様子を見ようとひとびとが集まるようになる。いちばんの観察ポイントは、藤原家の真向かいに位置する森野グリーンテラス二〇二号室、二〇三号室、二〇四号室だ。この三室はマニアのたまり場になってしまう。彼らはフジワラーと呼ばれた。

 これが筒井康隆作品ならば、フジワラーのふるまいがどんどん度を超え、好奇のまなざしの前に藤原家が丸裸になっていくところだろうが、石川さんはそういったスラップスティックなエスカレーションへは向かわない。藤原家はどこまでも平穏であり(やがてわかるのだが、彼らは自分たちに何が起こっているのかを承知している)、フジワラーはフジワラーで暗黙のルールをつくり、迷惑行為に及ぶ人間は排除される。

 そして、物語の終焉も静かに訪れる。見られる者(藤原家)と見る者(フジワラー)との一方的な関係が成立しなくなる極点で、そのときタイトルどおりの「半分世界」が実現してしまう。ちょっと驚かされる結末なのだが、一種のすがすがしささえ感じられる。

 奇想性という点でもっともSFらしいのは、「白黒ダービー小史」だろう。全住民が白と黒に分かれてサッカーのようなゲームを繰り広げている。町中は四十八のゾーンに分割されており、ゾーンごとに白と黒の両チームがある。白の家に生まれた者は白、黒の家に生まれた者は黒と、自動的に決まっており、そんなゲームがもう何世代もつづいているのだ。ゲームの起源はもはや伝説となっている。ボールが自分のゾーンに入りこんでくれば、仕事も何も放りだしてボールを追いかける。ただし、所属するゾーンの外にボールが出れば、それ以上の干渉はできない。両端のゾーンにゴールがある。

 黒のプレイヤーのぼくと、白のプレイヤーのマーガレットのラブストーリーが、この物語のいちおう主軸だ。しかし、読者の興味は、恋のなりゆきより、その過程で徐々に明かされるこの町の成りたちにこそある。たとえば、こんな記述。

ボールを三人以上で取り囲んではいけない、ボールを足以外のもので運んではいけない、ゴールマウスのほうを運んではいけない、などの基本原則で、破った者には罪の重さに応じて罰則が科せられた。これにより、今現在にまで続く、町役場、審判団、裁判所が権力の濫用を防ぐためたがいに牽制し合う、三権分立の雛形が確立されたのである。

 そう、このゲームはたんなる慣習ではなく、もはやこの町の基本原則を支えるシステムなのである。表面的には白黒の世襲などナンセンスに思える。しかし、ぼくはマーガレットとの恋を通して、白黒に分割されている町の奥にある、より根本的な真理へと到達する。それまで白黒(敵と味方)に塗り分けられて見えた世界が、まったく違って見えてくる。

 巻末の「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」は書き下ろし。本書には飛浩隆さんが解説を寄せている。飛さんは石川さんにインタビューをして、楽屋裏の情報も盛りこみつつ作品を紹介しているのだが、それによれば、「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」はアントニオ・タブッキ『インド夜想曲』にインスパイアされたそうだ。ほかにフリオ・コルタサル、ディエゴ・リベラの壁画にも影響を受けた由。コルタサル作品は「南部高速道路」(『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』所収)だろう。渋滞で身動きがとれなくなった高速道路上にひとつのコミュニティが成立してしまう。

「バス停夜想曲」で、登場人物が身動きとれなくなってしまうのは、バスを乗り継ぎする十字路だ。一番から九九九番の路線がここを通っているのだが、そのわりにはバス停のまわりは売店や人家がなく、貧しい荒野が広がるばかり。バス停には時刻表すらなく、何日も待つことも珍しくない。最初の語り手は新しくバスが来るたびにステップに足をかけ、このバスは自分の目的地へ行くか、ほかにもそこへ向かうバスがあるか、運転手に尋ねるのだが、「そんなところは知らない」というすげない言葉が返ってくるばかり。

 いま「最初の語り手」といったが、この作品では次々に語り手が替わる。替わるたびに時間が進み、どうやってこのバス停のまわりに集落が形成されていったかがわかる。もともとはバスを乗り換えるためにこの十字路に降りたものの、目的地行きのバスがなかなかこないため、一時的に生活できるように工夫しはじめたひとたちがいて、それが徐々に発展していったのである。そのなかには、ついに目的地行きのバスと出逢い、立ちさっていった者もいるし、結局住みついてしまった者もいる。そもそも、一番から九九九番まで路線があるからといって、そのあいだの数字に相当するすべての路線があるという保証はないのだ。バス会社もいくつも乗り入れているため、バス運行の全体像を知るものなどいない。

 全体の機構がわからぬまま、その機構に依存して生きる。訪れる幸運(目的地行きのバス)を期待しながら、日々の生活を成りたたせようとする。いっけん不条理に思えるが、考えてみればもともと世界はそのようにできているのではないか。

 この作品を読みながら、ふと思うのだ。ぼくがいま生きているこの世界も、もともとはさだまらぬバスの運行を待つうちに、とりあえず形成された場所だったのではないか。

(牧眞司)

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