残酷さと恐怖をくぐりぬけた者たちの物語『蝶のいた庭』

残酷さと恐怖をくぐりぬけた者たちの物語『蝶のいた庭』

「おそろしく寒い夜でした。雪が降っていて、ほとんどまっ暗でした—-大晦日の夜のことです。この寒い夜のなか、ひとりの貧しい少女が帽子もかぶらず裸足で通りを歩いていました」

 ハンス・クリスチャン・アンデルセン『マッチ売りの少女』の冒頭だ。この一節を登場人物の一人が暗唱し始めたとき、私の中に何かが浮かび上がってくるのを感じた。その何かとは、全体像ははっきりしないが、たしかに在ると実感できるもので、いずれすべてが終わったときには、明るみに出た物事の輪郭が寸分たがわずそれと重なるだろうという予感めいたものがあった。結末を読者に気取られることなく、しかしひそかに覚悟させるためにこの物語の欠片は機能している。

『マッチ売りの少女』の結末を知らない読者はいないと思う。マッチを擦って焔の中に味わったことのない家庭の幻を見ることしかできなかった少女は幸せだったのか、不幸せだったのか。そのひとときを偽りだったと言い切ることは、果たしてできるのか。

 ドット・ハチソンは2013年にシェイクスピア戯曲の『ハムレット』を題材にしたYA小説A Wounded Nameでデビューした作家だ。第二作にあたる本書、『蝶のいた庭』が本邦初紹介の作品となる。2017年はYAミステリーの翻訳当たり年で、特にエリザベス・ウェイン『コードネーム・ヴェリティ』(創元推理文庫)とフランシス・ハーディング『嘘の木』(東京創元社)は読者に強い衝撃を与えた秀作だった。二作には共通点がある。弱い者、虐げられた者と寄り添い、力になりたいという強い意志が感じられることだ。その点に共感した方であれば『蝶たちの庭』を興味深く読むことができるはずだ。本書は、暴力によってとてつもない恐怖を味わわされた人々の物語だからである。

 致命的な悲劇が起きたことが冒頭で明かされ、その生存者が行う供述に沿って話は進んでいく。証言者の名前はマヤという。偽名である。それは〈ガーデン〉と呼ばれる場所で暮らしていたときに、身にまとっていた名前だ。FBIが発見した彼女のIDカードには、イナーラ・モリシーとの記載があった。これも偽名である。真の名前を彼女は頑として語ろうとしない。それがなぜなのかが読者に明かされるのは、まだずっと先のことだ。

〈ガーデン〉が一人の男の歪んだ欲望が描き出した場所だということは明かしてしまってもいいはずだろう。〈庭師〉と呼ばれるその男は、十六歳から二十歳までの女性にしか興味を示さない人物で、成長しきっていない女性だけを常に十人以上の一定数、自分の精緻を極めた庭園に飾っておくことを好んでいた。ガラス天井に覆われた〈ガーデン〉は人工の滝さえも含む広大なもので、その中には色とりどりの鮮やかな花が咲き乱れ、たくさんの蝶が舞い飛ぶ。〈庭師〉にとっては女性たちもまた、その蝶と同じ愛玩物なのだった。ただし蝶と異なるのは、ただ目で愛でるだけの対象ではなかった点である。

 イナーラの語りにより、異常極まりない〈ガーデン〉の日々が描き出されていく。彼女が最も言葉を費やすのは、そこで共に暮らした女性たちのことだ。〈庭師〉によって狩り集められ、偽りの名をまとうことになった同朋。名前を奪われることによって本来の存在意義を奪われたイナーラたちだったが、運命共同体として日々を送るうちに個々の中に芽生えてくるものがあった。作者はそこまで踏み込んで書いているわけではないが、生存闘争のための連帯意識だと考えていいだろう。そして、一人が他の誰かであり、他の誰かが自分の一部であるような気持ちが芽生えていく。「きみはほかの子たちとかなりちがうね」と〈ガーデン〉の中で言われたイナーラはこう考える。

—-まったくの真実というわけではなかった。わたしだってブリスみたいな癇癪持ちだけど、それを外に出さないだけだ。リオネットと同じように短気で、それを拡散させるようにしていた。ザーラみたいに本を読み、グレニスのように走り、ラヴェナのように踊り、ヘイリーみたいに髪を編んだ。エヴィータのかわいらしい純真さだけはなかったけど、自分のなかに大半の子の一部があった。

 これは自分たちを取り囲む現実とどう闘うかという物語なのであり、その中で手を取り合うことの大切さを教えられる場面もある。あえてここでは、〈ガーデン〉で何が行われるのかという詳細については書かずにおく。実際に文字で情報を拾い、文章として受け止めていただいたほうがいいと思うからだ。全体の筆致は抑制が効いており、どうしても書かなければならないとき以外は酷い描写は出てこない。語り口は静かだが、だからこそ書かれた内容が胸に迫る。

 実際に残酷な行為を体験した者にしかわからないことがある。小説の後半になると、その事実を重く受け止めなければならない展開が続く。体験した者にしかわからないことの中には、その中でのみ感じる不思議な感情も含まれている。『マッチ売りの少女』だ。小説の終盤、〈ガーデン〉の女性たちはあることを行う。外部の者から見えたとしたら意味不明な行為だが、来るべき運命を受け止めるための儀式なのである。

—-それは、胸のむかつく不健全さだった。それに異を唱える子はいなかったと思う。不健全で、まちがってて、おそろしくねじ曲がってて、それでもどういうわけかみんなの気分をよくしてくれた。

 そのねじくれ方は読者の記憶にも強い印象を残すはずだ。たとえ共感はできなくても、そこに必死の思いが現れていることを誰も否定はできまい。

『蝶のいた庭』は、とても特殊で、現実にはありそうにない出来事を描いた小説に一見思える。だがここに描かれているのは、実は意外なほどにありふれた恐怖なのである。蝶の羽はいつも突然むしられる。

(杉江松恋)

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