声なき人のための物語〈アイアマンガー三部作〉完結!
エドワード・ケアリー〈アイアマンガー三部作〉がついに完結した。『堆塵館』『穢れの町』に続く最終巻『肺都』を読んで感じたのは、これは声なき人のための声として書かれた物語だ、ということだった。
一人で寂しくてたまらないときがある。大きなものに圧し潰されてしまいそうに感じているときがある。自分はあまりにも無力で何もできないと絶望してしまうときがある。誰も振り向いてくれず、どこにも声が届かず、世界が少しずつ壊れていっているように見えるのに何もできず、ただただ破滅を待っていることしかできない。そんな気分になるときだ。唯一できるのは声を上げることだけである。世界はざわめきに満ちていて、か細い声などは立ちどころにかき消されてしまう。まだ死んでいない、まだ生きていると自分で自分に証明するため何度も振り絞る声も、誰にも届くことなく空に飲み込まれてしまう。
だが、どこかにその声を聞いてくれる人がいるとしたら。
地面にぽっかりと空いた割れ目にはまり込み、永久にそこにいるしかないと観念していたのに、声を聞きつけた人が手を差し伸べてくれるとしたら。
そうした微かな希望をエドワード・ケアリーは書いたのである。だからこそ、一人でも多くの手にこの物語が届くことを望みたい。
おさらいをしておくと、物語の舞台は十九世紀後半、エリザベス一世が統治する大英帝国のロンドンである。世界一の大都市から排出されるゴミの始末は、アイアマンガーという一族に任されていた。その事業によって繁栄の礎を築いた彼らは、巨大なゴミ山を睨む場所に居館を築き、血縁の結びつきを重視する排他的な生活を送り始める。第一巻『堆塵館』では、十六歳のクロッドの視点から、一族に起きた異変の顛末が描かれていく。アイアマンガー一族には、生を受けた直後おのおのに与えられる「誕生の品」を肌身離さず持っていなければならないという掟があった。クロッドのそれは浴槽の栓である。ある日、ロザマッド叔母のドアの把手が行方不明になってしまい、そのために彼女は病に倒れる。それが契機となり、誕生の品の秘密と、アイアマンガーの闇の部分とが暴かれるのである。
続く『穢れの町』で舞台はアイアマンガーの城下町と言うべき町、フィルチングに移る。前作でクロッドは、屋敷に召使として雇われてきた少女、ルーシー・ペナントと出会っていた。そのことが彼を成長させたのだが、二人の邂逅は一族に崩壊の危機をも迎えさせていた。ゆえに彼らは引き裂かれてしまったのである。『穢れの町』ではクロッドとルーシーが必死の捜索行をするのが物語の主筋となり、アイアマンガーによる恐るべき所業の全貌が背景で次第に姿を現していく。新たなキャラクターであるゴミ山に生きる謎の人物ビナディットや、非情な性格の持ち主でクロッドの強大な敵となるリピット・アイアマンガーなどが新たなに登場し、スラム街を舞台に物語は一段と加速するのである。『堆塵館』は巨大な館の中の密室劇だが、『穢れの町』はアイアマンガー対市民という性格の市街戦の様相を呈する。
そして『肺都』だ。今度の舞台はロンドンである。アイアマンガーに都市の負の部分、すなわち不要なゴミの処理を担わせて、ロンドンは彼らを排除した。その街に、忌むべき存在と化したアイアマンガー一族が帰って来るのだ。
物語の冒頭、怪人物の吐いた黒い霧によってロンドンは闇に覆われてしまう。その闇を隠れ蓑にして、アイアマンガーの者たちは街の一隅に隠棲を始めた。警察当局の捜査網が次第に狭められていく中、彼らはある計画によって劣勢を一挙に覆そうとしていた。そのころ、街では奇妙な伝染病が蔓延していた。それに罹患した住民が、一人、また一人と姿を消していく。主人公であるクロッドは、失意の底に沈んでいた。再びルーシーと引き離され、今度は彼女の死を確信していたからだ。しかしルーシーはまだ生きていた。フィルチングで絶体絶命の危機に陥りながらも、決死行によって自分の運命を切り開こうとしていたのである。この二人が出会うことはできるのか。また、クロッドは策謀を凝らすアイアマンガーに再び与するのか、それとも一人の人間として自分の意志で生きるのか。この二つが話の流れの主軸となり、大団円に向けてすべてが突き進んでいく。
こうして書いただけでも冒険物語としての幹の太さは伝わるはずである。中心にあるのはクロッドとルーシーの関係だ。彼らが互いを求め、信じあおうとする姿からは、二人の強い心が伝わってくる。
ロンドン市とアイアマンガーの関係は、上にも書いたように中心と周縁のそれと言ってよく、社会が繁栄のために不可視領域へと追いやってきたものをすべて担うのがアイアマンガー一族だと言っていい。『肺都』の物語の核にして最大の謎は、そのアイアマンガー一族が何を行おうとしているのかという秘密なのだが、作者はここで実在の英国王室と政府閣僚たちを登場させる。つまり、現実の歴史と虚構の物語を接続して見せるのである。
『堆塵館』ではロンドン市郊外と言いつつも幻想風味が強く現実から浮き上がった館が主舞台であった。『穢れの町』ではその館を離れて一般市民の暮らす街で起きる出来事に話が移る。そしてついに『肺都』ではロンドンそのもの、そこで暮らす人々が事件に巻き込まれることになるのだ。こうした具合で少しずつ舞台が現実に接近してくるのを読み、私は自分の身近なところにアイアマンガーの物語がやって来るのを感じた。ここで綴られていることどもはもちろん虚構なのだが、自分とまったく無関係なわけではない。むしろ、虚構だからこそ描かれていることに普遍性が備わり、遠いロンドンの事件だというのに、我が身に起きる出来事であるかのような、切迫した思いを味わわされたのである。だからこそクロッドとルーシーの一挙手一投足を見守らざるをえない。息を呑まざるをえない。
二人が生き残りを賭けて闘うさまに共感を覚えるのは、それが世の理不尽さとの対決だからである。自分とは関係のないところで決められた策謀、誰かのエゴが引き起こした災厄に圧し潰されてしまう者がいる。そうした力の弱い人々の声を代弁するかのように二人は運命に抗い、生き抜こうとするのである。物の声を聞くことができるクロッドは、目であり耳であり、つまり世界がどういう形をしているのかを知ろうとする知性そのものだ。対するルーシーは、他者をないがしろにしようとするアイアマンガーに憤り、犠牲にされた人々への涙を流す。彼女は世界の歪みを許さない意志なのだ。本書の主人公が二人であり、ボーイ・ミーツ・ガール/ガール・ミーツ・ボーイの構造を取っているのは、両者の合一に意味があるからに他ならない。
繊細さと剛直さを兼ね備えた物語である。登場人物も膨大で話は拡散していく一方に見えるのに、それを収束させる技巧にも感嘆させられる。ケアリー作品を一貫して翻訳し続けてきた古屋美登里の文章は作者の呼吸を見事に写し取っており、初めから日本語で書かれたのではないか、という錯覚を感じる瞬間もあるほどだ。つまりは小説として完璧。自宅の書棚にこの本があることが誇らしく感じられるほどに完璧。温泉地で雪見酒をしながらつつく鱈ちりぐらい完璧だ。
(杉江松恋)
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